
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
分からない事は・・・・・
2018年03月01日 10:25岐路に立った時とか、人生の選択とか、それほど大袈裟な事ではないにしても、方向を決めなくてはいけない時や何らかを選択しなくてはいけない時。
自己責任、自分の事は自分で決める、こういう事はたぶん誰でも子供の頃から自立目的でとか考える力云々とかで言われてきているのでしょうから、やはりそれが沁みついていると自分一人で苦悩しつつ選択しなくてはいけないようにも思ってしまう。
今の自分が居る領域の事なのであれば、それはだから、今の自分の思考によって判断が可能な事なのであれば自分一人で考えて決めたっていいのでしょうけれど、逆にそうではなく新たな領域に踏み出すための選択という事になると、それは自分の知らない事について自分独自で選択する、という状況はどうなのか、可能なのか、分かるのか、適切な選択をする事が出来るのか、迷えば迷うほど近視眼的になって全体が見渡せなくなる。
知らない事なんかどんどん人に聞いたらいい、知っている人に聞いたらいい、これだけ高効率の社会になってきているのに、この部分だけは何故か昔のままなにも進化していない、という不思議。
昔の人は多分、自分で決めた、それが正しいと思っていたからというスノビズムなのかナルシシズムに根ざす想いなのか、暗中模索、試行錯誤をしてきた、要は回り道、回り道をしたからこそ分かる事がある、というのは事後的に自分を肯定する態度でもある、本当は選択ミスを隠蔽しているだけでしかないとかも・・・・・・・というのは思いっ切り極端な物言いですけど。
回り道が自分を成長させる事も当然ある、ただ僕らは回り道可能などれ程の時間を持っているのか、本当はそんな時間なんか誰も持ち合わせていないのかもしれません、回り道さえしなかったらもっと先に進めたのに・・・・・・的な。
自分で決めろ、迷え、悩め、誰からそう思い込まされているのか、時代を覆っていた社会の空気によってそう在るしかなかった上の世代の人達から思い込まされている、自分が歩んできた道に対するナルシシックな自己肯定の態度。
まあ、こんな大袈裟で露悪的な物言いはどうでもいいです、自分の知らない領域に対する選択時には、どんどん知っている人に聞いたらいい、意見や経験を話してもらえばいい、アドバイスもどんどん受ければいい、その上で選択するのと、近視眼的な主観で選択するのでは全然違ってきますから。
一人でまんじりとしながら決断するというのは、べつにかっこいいことでもなんでもないように思います。
思いつくままに書き殴ったので意味が通じないところも多いと思いますが、ちょっと最近こういう話が続いたので。
そう、そうですね、相談するために必要なのはまず、信頼できる人なのでしょうね、だからそれ次第なのかなと思いますけれど。
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