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動物を進化させると・・・・・・

2017年01月12日 09:11

動物的に対して人間的・・・・・・・・動物的というのは、人間的という事と比較して、必ずしも劣っているという訳ではない、ように思います・・・・・文脈によっては。
動物的、それは遺伝子のプログラムとして作動している、という意味合いみたいなイメージも。
だから行動の目的はハッキリしている、一貫している、生き延びる為、そこには善も悪も当たり前の事ですが、存在しない・・・・・・善悪はその動物の行動を目撃した人間が、そこに嫌悪を感じた時にのみ、悪のラベルを貼り付けるだけ。
動物は、純粋な存在、それは本能で作動するだけの存在なのですから当然の事で、だから純粋である事しかできない存在。
人間の場合はどうなのですかね、本能・・・・・というより欲求だけで動く時、それはただ単に純粋な存在であると称賛するわけにはいかなくて。
だからこそ、社会的な約束事であったり、法律であったり、そういうものが人々を仲介しているのでしょうし。
人間がいい意味で動物的になるには、人間は社会的な存在でしかない訳だから、その社会というものに対して有効に効果的に、いい影響を与えなくてはいけない。
自分なりの信念を持って、それだけを自分の核として、筋を通し、時にはより多くの付帯を犠牲にして、目的を全うする事だけに集中し、その目的の為だけに行動し、一切ブレない、それは動物が遺伝子のスイッチによって作動する時に、一切何の迷いもなく、的確に確実に、ただ淡々と行為するのと同じように、感情を排して一点の目的だけに突き進む。
その結果、その人間が(大小の)社会やコミュニティに対してポジティブに作用して、それを歓迎される・・・・・となると、そのいい意味で理想的に動物的な行動をとっている人というのは、大きな喜びに包まれるのか、喜びと共に在る事が出来るのか。
遂行中、目的に向かって行動している過程では、情緒は排除した方がいいのですかね、情緒が揺さぶられるとブレるのかもしれないですしーーそれはある意味人間的になってしまう瞬間という事なのでしょうかーー動物には情緒はないのでしょうから、そしてだからこそ一貫性をもって無駄なく行為できるのか。
そこで、結果を得た時に初めて、情緒を湧き上がらせて、喜びに浸る・・・・・・という動物的の進化バージョン・・・・・というか、人間は進化した動物なのでしょうから。
・・・・・・・・・・しかしまあ、なんでしょうかこのおかしな屁理屈は・・・・・・・今なんとなく思いついた、ただのファンタジーです。
ちょっと本気で書いている、使える部分もあることはあるのですが。
人生の一時期、目的や使命に向かうプロセスってこんな感じもない事はない、場合も時には。
 


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