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単一の意味
2021年05月17日 19:00言葉というのは隠喩的なものでしかないから、表現方法は沢山あるし、受け取り方も人それぞれ、だからこそなのか、後からその時の言葉のやり取りを思い返して「・・・・・・もしかしたらこういう意味だったのかも」とか「自分の言い方は正しかっただろうか」とか「ちゃんと誤解なく伝わっただろうか」とか、さまざまに思い返して不安に苛まれる事もある。
であるのなら、言葉をどんどん記号化していってしまえば、記号は単一の意味しか持たない訳だし、受け取り方は一つ、共通の認識、誤解は生まない。
単純な記号だけのコミュニケーションに限定してしまえば、思考すらも単純化する事が、というか単純な記号のやり取りに慣れてくれば、複雑な思考という、人間本来の特性も是正・改善されてしまう・・・・・・訳ないですね、多分多くのものを自分の内界に取り残してしまう、記号に当てはまらない大量のものを取り残してしまう。
片言しか話せない外国語で自分の想いを伝えようとする時の気持ちの悪い焦燥にも近いように思う。
じゃあ、あれです、記号も大量に作る、今使用されている言葉全てに対応できるだけの数の記号を作ってマニュアル化する、そのマニュアルを参照しながらのコミュニケーション。
それに感情の役割を果たす絵文字やスタンプでもくっつけておけば、それでコミュニケーションは何となく成り立ってしまうような気がしないでもない。
その言葉というのは、というか記号群というのは、何語と認識されるのか、ああ、じゃあ世界共通の世界記号にしてしまえば、発音はどうなるのかとかもあるけれど、この歳になって改めて大量の言葉ではない記号を覚える事は、なんとなく難しいような気もしますが、幼児期には自然と大量の言葉を覚えたのですけれどね・・・・・・・・・そう、ありえない妄想です。
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