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反転しない愛

2016年10月12日 09:10

愛には文字通りの(陽性の)愛と、その文字通りの愛が反転した怒りや憎悪という形の(激烈な感情という名の)愛の二種類がありますね。
これは多くの人が経験している事なのでしょうが、陽性の愛を向けていた人を何らかの理由により嫌悪するようになって、喧嘩も絶えなくなってきて、いつの間にか怒りを向けるようになる。
陽性の愛がクルッと手の平を返したように陰性の愛に変わる、でも陰性にしても陽性にしても、強いなんらかの執着や感情を向けている事には変わりはないのですね、どちらも愛には変わりはない。
思うに、一人の人に陽性の愛だけを向け続けるというのは、可能なのかと考えてみると。
条件が整えば可能である、ような気がしなくもないような。
その条件というのは、なんなのか・・・・・・。
その相手を、自分の一部であると思える事、というかまるで自分であると思える事、自分が大切なのと同じように相手が大切。
でも、それだけじゃダメなように思います、それだけだとその相手を操作したいという欲望が湧き上がってきますから、相手を自分であるかのように思うという事は、自分が自分の意のままに動くのと同じように、相手にも自分の意のままに動く事を期待・要求してしまう場合もあるのかもしれない、意にそぐわないと「ありえないんだけど」と思って腹も立つ(余談ですが、親が子供に向ける愛の一つもこれに近い場合もあるでしょうか)。
だから、まるで自分だ、と思えた上で、それはまあ、言ってみれば通底以上のものみたいな事なのかもしれないですけど。
そう思った上で、自分に対する100%の肯定感、いい自分もダメな自分も、全ての自分を自然と受け入れる態度、自分の意のままに動かない時々くじける自分・・・これもまた自分、という考えもそうでしょうか。
なんかやらかした時でも、スベッた時でも、そんな自分も悪くない「まあまあ、これも自分だし、こんなのもあり」とか「あいたたたぁぁ、う~ん、まあまあ、次行ってみよ~っ」位の感じで、別に自分に腹は立てない。
相手を自分だと思って陽性の愛を向けている中で、もし相手がなにか失敗したとしても、それは自分のように思っている相手が失敗したという事は、自分が失敗したようなもので、こんなような自分に対する100%の肯定感があれば、腹の立てようがない。
「あらら、スベッたね、まあまあ、こういう時もあるさ」になっちゃうんじゃないでしょうか、もしくは「ああ、自分も同じ事やるかもな」という想像とかも。
あくまでも、他者性を感じさせない中での話ですが。
通常は理性や自制心によってこういう流れが成り立つのでしょうが、しかしそうではなく、自分を自然と受け入れていて、自分に腹も立てない人であれば、まるで自分のようであると思えた人に対しては100%の陽性の愛を向け続ける事ができる可能性もある、とか。
なんかこれができたら、すごろくのアガリみたいなイメージもありますけど。


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