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受け入れるのか 混乱するのか

2017年03月07日 20:58

昔何かで読んだ話なので記憶も曖昧なのですが。
小学校に入学して、1+1=2 と教わる、その時、絵に描いたリンゴの絵を見せられて、1個のリンゴと1個のリンゴを足すと・・・・・2個のリンゴになる・・・・・・という事は自明として受け入れればいいのか、どうなのか・・・・・・混乱をきたす。
教えられたことを無条件に受け入れるだけではなく、提出された自明と言われるものを、自分の頭で一生懸命理解納得しようとした時、一瞬のズレが生じ混乱を招くのでしょうか、なんかその気持ちは分からないでもない。
リンゴ、それは一つ一つが独立した個体であって、形状も色も味も微妙に違うのだろうし、というかまずもって、それ以前に、足すって何?
リンゴとリンゴを、こう、ギュって握って合わせてくっつけて混ぜて・・・・えっ、でもそうすると形は変わっちゃうし大きさも変わっちゃうし、じゃあ、大きな一個なんじゃないの?・・・・・・と、思わないでもないのかもしれない。
もしかしたら原型のリンゴとは形が変わっちゃうから、それはもうリンゴとは認識できない何かなのかもしれない。
これ、例えがリンゴだからそんな感じなのでしょうが、1人の人間と1人の人間だったら・・・・・それは2人の人間になるのかというと、やはり考えようによっては体格も顔も性格も違う訳で、だから1人の人間と1人の人間を、どうやって足せばいいのか?
一人という個体や固有性の認識から二人という個を排した、大枠での同種としての認識、匿名としての認識
くっつけるのか、なんか合体でもさせるのか、でもそれでは・・・・大きな1であって、決して2ではない、とか、思考はどんどん飛翔してゆく。
人間の形をした粘土だったら、丸め直して合わせて作り直せる・・・・・・じゃあ2というのは大きな1なのかとか、3というのはもっと大きな1なのかとか。
そもそも足すなどという行為は不可能な事で、どこまでいっても1人と1人は、1人と1人なんじゃないか・・・・・・とか。
訳の分からない事を書いてしまいましたが、自明をそのまま飲み込むのではなく、自分なりに理解しようとした時、混乱を招いて途方に暮れるという場合もあるのかもしれないです。
僕らはこれは既に受け入れて知っている事だから、そんなナンセンスな、と思うかもしれませんが、それは、まっさらな状態で初めて1+1=2を知らされた時、ズレが生じずに素直に自明を受け入れたからであるのですね。
教えられた事に対して「どうして?」が芽生える時、心的痙攣状態が生ずる事もあるのだと思います。
ああ、そうだ、水道水の1リットルと1リットルであれば、それは2リットルであると素直に理解できるのでしょうか・・・・・全く同質のものだから、人間やリンゴは全く同じものは二つとしてないのでしょうが、水であれば可能性が。
でもそこで新たな細部の確認が強迫的に生じるのかもしれないですね、水の成分・・・・・水道水の成分を調べて、塩素の含有量は確実に一定なのかとか、どちらかの水に蛇口に付着していた微量な異物が混入しているんじゃないかとか、そうなると完璧に同質だとは言えなくなる・・・・・・思考は確実に飛翔してゆく。
これはナンセンスでも冗談でもなんでもなく、実際にこういう事に囚われて憔悴するという事態はありえる訳で。
僕の場合は、この先に思考を巡らすことを想像した時、一抹の不安に苛まれ、そして思考を進める事を中止せざるをえません、それは・・・・そう、その思考の行きつく先を確信した時、大きな不安にかられるからだし、その勇気がないから。
・・・・・思考が飛翔した時、肯定感の中で安心して自分の考えを話す事って、とても大切だと思います。

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