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夢が語る
2018年10月19日 11:25理性による精査を積極的に怠る中で無意識に勝手きままに喋らせると、それは論理的破綻でしかないし、ハッキリと言えば支離滅裂、いったいどこの大文字に自分は侵入しているのかとかある意味、シニカルに感心してもしまうのですがその奔放は自分の頭でものを考えるキッカケを与えてくれる、自分が自分としてしか生きる事が出来ない証明であるかのような、しかし注意していないと一瞬で走馬燈のように消えさってしまう脆く不確かなという意味においての確かさ。
夢がしゃべっているような感覚・・・・・・・・・・ある主体が人前に出るとある一定の行動や情動の変化を常に経験してしまう、その事に息苦しさを感じてその変化を是正したほうがいいのではないかと考える、そういう自分ではない今よりましな別の自分に性格を作り直したいとか思うというのは。
社会という環境がその主体に意味を与えている、情報を与えている、じゃあそこではその主体から見た場合には、自分が参入する環境そのものが情報を意味を始めから内包している、自分はただその内包されていた意味に従っただけ、意味を与えられただけ、見出された自分、それが本来の自分、自分の発見。
しかし、そもそも環境が元々持っていたとここではされている意味というのは、確かに環境の中に存在していたのか。
そうではなく主体が精神に圧迫を感覚する中での自分の中から不安や恐怖を源泉とした投射なのか。
とかなると、浮上してくるのはアフォーダンス的なニュアンスなのですが、であればそこでマイクロスリップは起こるのか、もし起こるのであればそのスリップをネガティブに捉えるのではなくポジティブに、たぶんそれは緊張感を欠いた自分の対応として表象される、気を張っていない中での素の自分の対応として、そこを目指して当初与えられたように確かに錯覚した意味をスリップを利用して軌道修正してゆけばいいんじゃないかとか。
・・・・・・・・そんなような、ただの、エスが喋るみたいな状況なのですが、僕の普段の思考のキッカケというのは、この程度の論理的破綻もしくは論理のご都合主義的曲解でしかありません、いつもこういう,、いわゆるテキトーな、いい加減な、とっかかりから何かをごちゃごちゃと組み上げる感じで、これはそのたたき台でしかありません。
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