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夢の中に居続ける

2018年11月21日 09:26

「今年も、もう終わりますね・・・・・」と言われ、そうですね確かに、考えてみればいつの間にか11月の後半、12月というのはバタバタと慌ただしく過ぎ去ってゆくという現実もあるし、早いものです、とか毎年のように感慨にふける。
今年一年、自分は何をしていたのだろうかと想い起こそうとしても、そう、よくわからない、上手く思いだせない、となるとそれこそが夢中であった事を証明するのか、いや、そういう訳でもないような気もします。
何を積分するでもなく、ただ唯物論的な現前に集中するという態度を、態度というか、自分はそうやって生きるより他に、現状それ以外の別の生き方が出来る訳ではないので、だからそのように在るより他にないという多分これはもしかしたら性分とかそんなようなものなのでしょうけれど。
目標を掲げて、その目標に徐々に接近している自分を実感して喜びに浸るという農耕的生き方、本当はそう在った方が振り返った時に実績であったり結果であったり、そういう参照可能な具体性を手にする事が出来るのだから、自分は確かに生きていると喜びと共に思えるのでしょう。
それとは逆に、一年を振り返った時、刹那、今年何があったのか、自分はどのような経験をしたのか、何を学習したのか・・・・・・・・あまり思い出せない、だからもしかしたらこの状況というのは、生きている実感を得ていないという事なのかもしれません、生きているのか死んでいるのかすら定かではない、これは夢の中を生き続けている感覚にも近い状態。
そうですね、流れの中に居続けるという事は夢の中を漂う事もしくは、夢の中で焦燥する事であるように思います。
たぶんこの流れから一旦上がれば、流れの外に自分が思い切って脱出すれば、客観とか俯瞰とか、そんな様な事も可能なのでしょうけれど、なにかそれだと面白くない、ラカン的一なる印から、というのは平たく言えば過去に出現したという今となっては他者的視点から自分を見るという事は、そこで何らかの結論や判断を下さなくてはならなくなってしまう、結論や判断というのは切断につながる、それは流れの切断、だから一区切りみたいな事、そこでヘタな総括でもしようものならそれは自分に対してのくだらないダメ出しにつながる可能性すらあるし。
ああそう、自分はただ、人と関わるだけの存在でしかないのだし、そこで自分は確かに人の役に立っているなどという自負を決して芽生えさせない為に、あえて自分に判断を下す事を避けているだけなのかもしれません。
判断は得てして、自分の都合のいいように下される、事実を自己愛が捻じ曲げてしまう、その結果得られるのが、人の役に立っている自分などという慢心や無能でしかないのだとしたら、それはあまりにも滑稽で間が抜けすぎているように思え、だからこそ何も思い出せないふりをしているのかもしれないですね、全てをベールで覆っている状態、ただし無意識内では全てを了解していて、それはまた夢に現れるという、そんな感じでいいんじゃないのかなと今は、思ってます、結局は、全ては夢の中での出来事のように、という事になってしまうのかもしれないけれど・・・・・・・・・・・しかしほんと、早いもので今年もあと一か月だそうです。


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