神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
大人になれない
2016年05月26日 09:39大人と言うのはどうすればなれるのか、と真面目に思案してみた時。
わ、わからん、わからんです・・・・・・。
どうなのかな、一人でいる時は、なんというか年齢を意識しないただの一人のボーっとした人間でいて、というか「素の個」でいて、人と接触する瞬間に必要があれば大人を演じるということなのか、あぁ、多分昔の人も大人を演じていたのだとすると、僕らの世代位になってしまうと、演じるというより瞬間芸的にフリをする、というような感覚なのかな、う~ん、なるほど瞬間芸ね、なんか自分で書いていて妙に納得してしまいますが、それは器用さにもつながりますね、僕らは器用な人達なのかね。
子供の文化・若者の文化・大人の文化、こんなような境界が昔はハッキリとあった、という事もなにか幻想であるようにも思うのですが、一応あったとして今はそれがよりあやふやで、どの世代も同じようなものを楽しんでいたりもしますし、でもまあ、それは実際に手に取ってみると楽しかったりするからなのだろうし、それを大人が若者におもねっている、と言い切ってしまうのはやはり抵抗があって。
だから、社会がそれだけ成熟しているのか、なんか全てが飽和状態になってしまっていて、世代の境界から滲み出してしまっているかのような。
人生楽しくという事で、世代に関係なく興味を引いたものは手に取ってみる、というのは大切な事ですしね、なにも若々しくあらねばならないから、などという理由からではなく、ただ生を実感し続けるために。
ただね、みんながみんなそっちの方向を、というのにもちょっとだけ抵抗がない事もなくて、でも、楽しむことはいい事で。
と、まったく煮え切らない訳ですが。
でもなんとなくそういう状況に触れるたびに、なんというかーーーやせ我慢してカッコつける美学ーーーみたいな言葉が脳裏をよぎる瞬間があります。
子供のフリをするのも楽しい、若ぶるのもそう悪くもない、それを受容した上で斜に構えるんじゃなくて、痩せ我慢してカッコつける。
でもそれってどうやるの? と思わないでもないんですけど。
なんか、ちょっとやってみたいような欲望に駆られてもいます。
実際、それがカッコイイのか、それが大人という事なのか、よく分かりませんが。
大人の原型って見た事ないかなあ、映画の中、本の中、心的イメージの大人しか思い浮かばないないようにも思う、で、それも幻想だっとりとか。
なんか芸人さんのコントの世界をコピーして演じるようなイメージも湧き上がってきてしまいます。
思うに・・・・・たぶんカッコよくはないのでしょう、どちらかというと人から見たら残念な感じに映るんじゃないだろうか。
じゃあ、残念の美学、ってそんなのあります?
そうですか、結局行き着く先は「残念の美学」ということのようです。
でもなんか、それはそれで自分が了解できるのであれば、楽しいような気がします、残念な人って周りを楽しませてくれる一面もありますしね。
あら、でも周りが楽しんじゃうという事は、ヤセ我慢してカッコつけてるのを見て「ウケる~」となるわけですから、その人達の目に映るのは、子供みたいに大人ぶってる人、要は、まるで子供のような無邪気さで大人のふりしてカッコつけてる人・・・・・・じゃあ子供じゃんやっぱり、大人にはなれないって事かい? どこまでいっても。
でも、面白そうだから一応やってみようかな、しかし参考になるオリジナルの大人のイメージがコントの中や自分の心の中にしかないようにも感じて、だからオリジナルなきコピーのコピーのコピーの・・・・・・となりそうな気もしてますが・・・笑えるね、間違いなく。
オリジナルなきコピーかあ、今の世の中の、ど真ん中を表現する事にしかならないですけど、まあいいです。
—————