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夫婦はしょせんは他人?
2016年11月26日 09:06「夫婦なんてしょせんは他人なんだから」などと露悪的に表現される事もありますが。
一歩家から外に出ると、そこは他人がたくさんいる社会というもの・・・・・・そこに存在する他人というものには、気配りも出来るのだろうし、礼儀正しくも接する事ができるのだろうし・・・・・・配慮できますね、というかよそ行きの態度を保つ事が出来る、理性的でいられる、理性を保つ事が出来る・・・・・他人というのは身内ではない人とか、あまりよくは知らない人とか、遠慮や気遣い、社会に適応する為に多少は自分が装わなければならないように感じる相手?
パートナーというのは家族の根幹をなすものなのだろうから、それはやはりカップリングするべきもの。
当然自己愛を投射する対象ですから、できるなら自分の想いが伝わる相手であって欲しい、自分の想いを汲んで動いて欲しい、助け合い情緒的な接触を欠かさない中で共に歩んでゆきたい。
こういったものが上手く機能しなくなってくると、なかなか理性的ではいられなくなる、感情的にもなる、それに疲れてくると、冷める、見限る、的な。
その結果として「しょせんは他人」という割り切りが起こるのでしょうか。
だとしたら、それを逆手に取って「しょせんこの人は他人である」と常に念頭においておけば、他の他人に気配りや礼儀が尽くせるように、パートナー間でも礼儀正しく、よそ行きの態度で接する事が出来る、などという・・・・・・・・・・ことは、ない。
でも、この人は他人・・・・他人には礼儀正しく理性的に・・・・・一番身近な他人であるこの人にこそ最も礼儀正しく理性的に接する・・・・・・・・などと思える・・・・・・・・訳がない。
自分の精神から切り離す事は難しい存在なのでしょうから、やはり自分の思いもぶつけてしまいますよね、努力なしに自然と理性的に礼儀正しく、よそ行きの態度で接する事ができるのが他人というものなのかもしれないですから・・・・・・そう考えた時、最近あんまりパートナーから文句言われないなあと思ったら、気が付いたらいつの間にかよそ行きの態度になっていた、礼儀正しくなっていた、というのは、ちょっと・・・・・・・・・気を付けた方がいい、のかもしれないです、ていうかピンチなんじゃないでしょうか。
「夫婦というのはしょせん他人であるからこそ、他の他人に気遣いを持って理性的に接するのと同じように、パートナーにも気遣いを持って理性的に接するべきである」というように考えられる人が、中にはいらっしゃってもいいような気もしますが・・・・・どうなんでしょうね。
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