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存在する空疎
2017年07月03日 22:14ホール&オーツのManeaterが流れていて、懐かしさに思わず、なんとなく口ずさんでいる時、ふっとマスカレード的なヴィジョンが立ち現れた。
仮面舞踏会、でしょ、だからなんなんだろうか、これは別に意味なんかないのかもしれないけれど、意味のない事を思案するのも、悪くははないですから。
えーと、僕らは常に、それぞれの日常の中で、それぞれの仮面を装着して、舞踏会というよりは、自分の人生の演台に立ち続けている、観客はただ一人、自分の素という空疎・・・・・・・・・・とか言いだすとまた訳が分からなくなりますから、どうしようかな。
僕らは常に何らかを、何者かを、演じ続けている、それは物心がついてから、という事は社会性を意識するようになってから、ずっと。
与えられた役割という仮面、表現したい自分という仮面、ありのままの自分という仮面、そう、ありのままの自分というものすらも、仮面でしかない。
そしてありのままの自分という仮面を剥いだ時、そこにいるのは、何者でもない、匿名でしかない、なにも演じる必要のない、顔のない自分。
家で一人でいる時、なんとも言えない、所在のなさに囚われる事ってないでしょうか、ホッとする気持ちの中に、孤独や静寂が混在しているような、自分が小さく心細くなってゆくようにも感じる、輪郭が薄れてゆく感覚、衝動的に温もりを求めたくなる場合もあるのかもしれません、誰かに認識して欲しくなるのですね、抱きしめてもらって自分の輪郭を確認したいとか、輪郭を確かに取り戻したいとか。
ありのままの自分とは、役割を演じる中で芽生えたやり場のなさや不満や寂しさの対極に在る自分とも言える、演じている役割としての仮面にもし不満がないのであれば、ありのままの自分というものに意識がいかなかったのかもしれない、不満が芽生えた時に「本当はこういう自分でありたい」と思ったヴィジョンが、ありのままの自分という仮面を生み出す、言い方は別に、自然体の自分とか、素の自分とかでもいいですけど。
全ての仮面を脱ぎ去った時、そこには所在のない、何者でもない自分という空疎が存在する、と言うか本当は存在しないという事だと思うのですが、存在しないと言い切ってしまうと身も蓋もないので、一応ここでは、存在する空疎という事で。
とかいう、すいません結局訳の分からない事書いてしまいましたが・・・・・・僕らは自分を保つ為には常に何らかの仮面をかぶって、なんらかの役割や表現したい自分を演じ続けるしかない、それはその状況ごとのキャラクターを演じるという事なのでしょうが、そうやって人と関わる事でのみ、自己が成立する。
逆に考えれば、全ての仮面を脱ぎ去った時、それはありのままの自分という仮面も勿論ですが、全てを脱ぎ去った時、心細さや所在のなさ、そして何者でもなくただ存在する事を許されている事に、少しだけホッとしたのちに、寂しく、人恋しくなる。
さまざまな仮面を用意して、各所に点在している拠り所となる場所に、自分をちりばめてゆければいい、それこそが認識される自分なのだろうし、そこで疲れた時は、ありのままの自分という仮面を装着して心を許せる人に思いっ切り甘えたっていいのでしょうし。
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