神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


寝オチ

2018年01月27日 11:27

日中の精神的喧騒の中での予定外のスポット、空疎としての時間に書物に目を通したり何かを書きつけたりしている時、不意に襲ってくる眠気。
少しだけ横になろうと部屋を移動し、アラームもかけずにいきなり仰向けで膝を立てて、ものの一分もしないうちに一気にノンレム睡眠へ、というのは寝オチにも近いのか。
理性が活動を収め、無意識を監視する為の僅かな点滅だけを繰り返す中で、自分は鉛色の、底があるのか無いのかすら定かではない、洞窟内に奇跡的に形成された水脈の深みの中へと没入してゆく。
もしくは理性の主体である自分が活動を休止した効果として、無意識の主体としての自分が自由に活動できるようになった状態、という事なのかもしれないですけれど。
ノンレムからレムへ移行する一瞬の間に、というのは無意識の奥底から水面へ浮上する瞬間にという事であるように思うのですが、その時なにか様々なものを目撃するように思います、大きな比重の鉛の中で刹那的閃光がそこかしこに点在しているかのような、注意深く観察しなければノイズとしか認識できない何か。
それは自分を構成している要素の中の、他者と通底している部分であったり、転移関係にある部分であったり、なにかそんなようなとても重要な部分であるかのように思えます、突き詰めた時、通底や転移にしか生きる喜びというのはないのでしょうから、多分そういう事。
寝オチしてからものの20~30分で覚醒する、というより意識が戻る、鉛の底から水面に顔を出す、うっすらと目を開ける前に自分は今どこにいて、今は朝なのか夜なのか夕方なのか、横になっているのかソファーに座っているのか、それとも車のシートの背もたれを倒して休んでいるのか、自分は誰なのか、そもそも生きているのか生きていないのか・・・・・・・見当識が喪失する瞬間。
覚醒と同時に徐々に回復する見当識、それはすこしがっかりする瞬間でもある、現実に引き戻される訳ですから、拡散から集約へ、溶解から凝固へ、無意味の快から意味の強迫へ。
僕らは本当はただ、自分などというものは意識すらしない中で、うっすらと漂っていたいだけなのではないか、という事が脳裏をよぎりもする・・・・・・絶対に叶わない事ですけれど。
ちょっと話は逸れますが、精神と身体で構成される僕ら、どちらが先なのか、精神が先にどこかにあって、生まれ出る身体に宿る訳ではない、身体が先に存在して、その身体の構成要素である脳を初めとする各器官の効果として精神が芽生える、これは人それぞれ考え方は違って当然の部分でもあると思います、僕は物質が先だと思っています。

—————

戻る