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尊敬の念
2016年07月20日 09:10人に尊敬の念を抱く時、その人は憧れの存在であったり、自分が目指すところにいたり、なりたい自分のモデルのような人であると感じたり。
そういった動機から尊敬の念が芽生える事もあります。
だからその人は、自分の延長線上・同一線上にいる人である、とも言えるのかもしれませんね。
これは、ちょっと見方を変えると、今の自分を受け入れ尊重していないと、適切には抱きにくい感情なのかもしれません、延長線が自分の所で途切れてしまうというか、そもそも延長線になりようがないですからね。
素直に尊敬の念を抱けるかどうかというのは、一つには今の自分を受け入れているかどうかという事のバロメーターにもなりうるのかもしれません。
でも、これは今はそういう自分ではないのだとしても、別にそれが悪い事でもなんでもなくて、それも自分にとっては必要な一時期であるという事だって十分に考えられますし、だから、いつかそうなっていくのかな、位でいい訳で。
・・・・自分に当てはめて考えてみた場合、そんなような気持ちが多少なりとも芽生え始めたのは、そうですね30歳以降くらいからでしょうか。
20代の頃まではよく言われましたけどね「敬え」とか「少しは尊敬しろ」とか。
そう言われるたびに、まあ口には出さないまでも? ほんとに口に出さなかったのかどうかは今となっては記憶が定かではありませんが・・・・思いっ切り顔や態度には出しつつ「チッ、この▽※×◇※○がぁぁっ」←自主規制、くらいには思ってたんじゃないですかね。
でもこれは、今更ながらに振り返って考えてみれば自分を保つのに必要な事であり、そして必要な一時期であったようにも思います。
そう思った(言った?)あと、やっちまった感が芽生えて凹むのかというと、決してそんなことはなく、むしろその逆で・・・・・・いや、やめておきましょう、多分分かる方には分かって頂けてると思うので。
だから、そうですね、こんなような時期を経て、人との関わりの中で徐々に心的に統合されてゆくのだと思います、まあ、器質的なものは多少は残るのかもしれないですけど、だから、どうなんでしょう、噛みつきたい時には・・・・・・そうだ、だからストレッサーに噛みつくという事なのかもしれません。
個人個人の性格的な事の中で、そういった気持ちが人に向かうのか、自分に向かうのかという違いはあってあとしても、人との適切な関わりの中でどちらも徐々に統合されてゆくんじゃないでしょうか。
ああ、ところで、社会的成功・立場・名声、顕示欲に基づいた心的成熟のようなもの、こういったものだけが尊敬の対象になる訳ではないですよね。
何に対して尊敬の念を抱くのかというのは人それぞれでしょうが・・・・自分を、そして自分を取り巻く環境を、苦しみの中で自分で引き受け続けて、その上で折れそうになる自分を自分で支えながら精神的に生き延び続けてきた事、それは人生の中の危機的な一時期であったり、人生のとても多くの時間であったり。
自分で自分を引き受ける、または引き受けざるを得ないと感じさせられる中でも精神的になんとか生き延び続けてきた、ご自身では気が付いていらっしゃらない場合もありますが、これは並大抵の事ではないですし、根本的に強く優れた人間性をお持ちの方な訳ですし、この事に関して、大きな尊敬の念を日々抱かせて頂いています。
なんか話がどんどん逸れていってしまいました。
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