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尊敬出来る人?
2017年01月13日 09:10「あの人はすごい」「自分もああいう人になりたい」
誰かに憧れ、その誰かを自分の理想とし、だからこれは尊敬を向けるとか言う事になるのかもしれないですけど。
この、誰かに尊敬を向けるという行為の中の一つには、自分が自立して社会に出て、まあ、学生時代の部活の場合なども、もしかしたら当て嵌まるのかもしれませんが、多くの場合、自分の目指す方向の、自分より相当前を歩んでいる人格者のように思える人に、向ける場合も多いのかもしれませんね。
この構造が成立しやすいのは、定型の上を?規格の上を? だから、社会の用意したレールの上を歩んでいる場合なのかな、と思います。
自分と同じレールを歩んでいる人がたくさん存在するのであれば、自分より遥か先を歩んでいる人格者というのは、自分の理想とするモデルにより近いのでしょうし、そこはやはり尊敬を向けやすい。
逆に、尊敬する人なんか思いつかないとか、そんなの意識したこともない、と言う場合は、社会の用意したレールの上を歩んでいるのではなく、自分の考えた独自の歩みを、それはレールとは別の場所で、楽しみながら歩いているという事なのかもしれませんーーその場合は自分自身の理想像を経験によって随時再構築し続ければいいですーー。
であれば、それは自分の価値観や考えに基づいての歩みなのですから、自分の前には誰もいなくて当たり前、尊敬する人なんかいなくても当たり前・・・・・・自分を適切に尊く思う「自尊心」を保って歩み続けるという充実感。
でも、いつかは出会うかもしれませんね、自分と同じように、その人独自の道を歩んでいる人で、尊敬できる人・・・・・・というニュアンスではなく、お互いに分かり合える、リスペクトし合える人。
でも実際どうなんでしょ、若いうちから目上の誰かに尊敬を向けるとか・・・・・必要なのかねこれ、社会に古くから存在する価値観に基づいて生きようとした時には、そういう身振りも諸先輩方から歓迎されるのでしょうが。僕らはどうだったかな、と思い返してみると、そうですね、誰も尊敬なんかしてなかったというか、自分より年上の人なんか何とも思っていなかったし、なぜかフツーに勝てるとか思ってた、じゃあ、反面教師は存在したのかというとそういう訳でもなくて、たぶん「ダセーやつ」としか思ってなくて、眼中になかったんじゃないだろうか・・・・・・・・・そう、これこそが根拠のない自信、の一種ですね。
まあ、そんなこんなで、年齢を重ねると思う訳です事後的に「そういえばあの人ってすごかったのかもな」とノスタルジックに、でもそれでもいいんじゃないですかね、謙虚になるのは自然とそう思えるようになってからで。
尊敬が服従や隷属や庇護の要請に移行してしまう、自分を小さくまとめ過ぎてしまう、という事も時にはありますし、もし仮に誰かに尊敬を向けたとしても、それはその人を乗り越える為、とか言っちゃうとベタ過ぎますね、だからその人を最終的に打ち倒すため、ブッチ切るため、自分の方がもっと高みまで行くため。
深刻なイメージの古典的な尊敬より、ニュアンスとしてのリスペクトの方がいいかもしれないです、楽しそうですしね。
自分は自分であろうとした時、誰にリスペクトを向けるか・・・・・やはり、自分は自分であると想いながら生きている人に対してでしょうか。
そんな中、自分は自分と歩んでいるうちに、どこかのタイミングで自分とは別の領野で頑張っている人、それは社会の用意したレールを黙々と歩いている人という事なのかもしれませんが、そういう人に尊敬を向ける事もあります・・・・・・・これは自分がある程度の達成感を得る事が出来たその先で起こる情動の変化なのかもしれません。
そうなってくると、なんとな~く自然と、人間は謙虚になってくるようです。
年とって丸くなった人とか、こんな感じなんじゃないですかね。
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