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小さな自分を知る
2016年12月12日 08:18ええと、一般論で語ろうとすると、それはよくないようにも思うので。
あくまでも、自分について思う事として。
今まで生きてきて、そしてこれからも生きてゆこうと考えている中で。
何かに満足するという事は、想像してみるに、やはり、決してないようにも思う、です。
満足したらそこで伸びしろがなくなるからとか、可能性を排除するべきではないとか、そういった知的な理由からではなくて、たぶん、なんとなく満足なんてする事はないんだろうな・・・・・・位のぼんやりとした、これは予感とか徴候とか言われるようなニュアンス的なものでしかないのだけれど。
そんななかでも、やっぱり何かに納得しつつ、というか自分を納得させつつ、自分なりのその都度の喜びであったり、こうあるしかない自分の必然性であったり、でもそれは、あきらめと共に自分を納得させるということでは、あまり良くはないのだろうし、自分はこんなもんだ、とかはなかなか落胆しきれない中で。
大人になる以前の万能感に満ちた自分でいる事はできない、というのは、経験や学習を重ねるに従って、徐々に判明してくることでもあって、だからそれは自分の今後に無限の可能性が開けている、などという事は決してないと・・・・・・これはやはり受け入れなければいけない事。
小さな自分を知る、己を知る、分相応・・・・・そんな言葉もチラついてしまうのだけれど、でもたぶん、そうなのでしょう、ここまで歩んできて、今となっては、やはり自分にできる事、できない事、能力的限界や時間的物理的限界、やはりそういうものを受け入れてからではないと、自分を納得させて、今の自分と共にこの先歩み続けるというのは不可能で。
自分に落胆したくはないし、自分がガッカリもしたくないし、降伏したくもないのだけれど、でも、小さな自分というものと向き合って、それを受け入れた先にしか、自由や工夫や創造はないように思えて、だからやっぱり、その小さな自分というものを受け入れて、そうすれば小さな自分なりの希望や理想も見えてくるのだろうし、というかそうしないと納得も何もないように思え・・・・・不完全な自分を理解する、みたいな事でしょうか。
自分に関して無限ではない事実を受け入れ、それは能力的にも物理的にもという事、そしてその上でないと、自分なりの希望とか理想とかいうものは描きようがないですしね・・・・・・その理想を描いて、そこに向かおうとする自分の過程に納得があれば、何かそれでいいのかなと、ちょっと思います。
多分、より良く生きようと思った時、そうした方がいいのかもしれないですね、そしてこれは理論を排除して、感情に基づいて思った事として。
・・・・・と言いつつも、引き続き何かに抗いながらという本質は変えるつもりもなく、だから今のまま少しでも多く納得できるように歩いて行くのですが。
あくまでも、自分に関してだけの事ですし、こういうのも年齢や経験と共に変わってゆきますしね。
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