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屈服するか 乗り越えるか
2015年10月24日 20:30尊敬する人に認められるという事は、その人と同じ高みに立つという事なのか、それとも、その人に屈服するという事なのか。
こんなような言葉を聞いた事があります。
どうなんでしょう、どっちもありなんでしょうか。
仮に尊敬する人が父性的で「ワシを踏み台にする事はまかりならんっ」ってタイプの人だったとしたら、認められるには、その人に気に入られるような言動をしなくてはならないのかもしれませんね。
そうなると、認められるという事は、屈服にもつながってくるのかな。
逆に、育てる意思が明確な母性を合わせ持った人を尊敬した場合は、実績を十分に認めてくれて、結果、同じ高みに立つ事を許可してくれそうな気もします、それどころか、新たな素質も見出してくれて、伸ばしてくれて、もっともっと高みに押し上げてくれるのかもしれません。
父性・母性という表現が適切なのかどうかは分かりませんが、なんかそんな気がします。
そして、どちらのタイプの人に尊敬の念を抱くかという事も、決して偶然ではない場合もあるのかもしれません。
尊敬するという事は、まずはその人に好感を抱いたのでしょうから。
父性的な人に好感を抱くのか、母性的な人に好感を抱くのか、それは本質的な事とも言えるんじゃないでしょうか。
その時点ですでに、同じ高みに立つのか屈服するのか、どちらかを選択しているのかもしれません。
父性的な人に尊敬の念を抱くのは、そもそもが乗り越えてゆく事が目的である、と言う場合もあるとは思います。
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