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心というのは・・・・
2020年12月06日 11:20心、心というのは相変わらず、一向に、掴みどころのない、本当にあるのかどうかすら分からない僕らの思考が創造した幻想しかし、自分を語る上で最も大切な不確定物。
神の不在が暴かれて、その場所が無意識に取って代わった、そして時を同じくして心というものが明確に設定されたようにも思えます。
無意識というのは間違いなく、あって当たり前のもの、ただこの無意識というのは、今この瞬間に思いだしていない事、というのは今この瞬間に意識され言語化されていないもの全てを収納している、いや収納というより自分の重力に引きつけられ続けている、これは地球に引き付けられている空気と同じような構造、今までの自分の全ての経験が言語として混沌している全て。
だからここで言う無意識といのは、一切、決して、神秘的なものではないのです、平たく言えば生まれてこのかた、自分の全ての経験がカオスとして自分に纏わりついていて且つ、今この瞬間に意識していないもの全て、というだけの事。
心と言うのはこの領野には存在していないように思え、なんというか、マンガの台詞のふき出しのように、無意識が随時常に、自動的に設定して提出してくるものであるように思え、だからこそ、この心と言うのは強くなったり弱くなったり、暖かくなったり冷えたりする、それは情動の変化と認識されるのかもしれませんが。
経験を言語として認識するより一瞬早く、無意識が自己防衛反応として、過去の全ての言語を総動員して、その場に適した言語をマンガのふき出しに入れて、意識に提出してくる、それが心。
この操作をしているのは誰なのかというと、多分、自己愛、自分という自我の中核に鎮座している、自己愛が意識の枠外で、隠れて操作している。
だから心と言うのは自分の中心にある訳ではなくて、というより自分の無意識や自我からは排除されている、マンガふき出しのように、頭の後ろあたりに、くっついてまわっているようなイメージなのですが。
無意識の中核には空洞のファルスがあって、それが重力となって自分の経験した事を言語として引き付け続けていて、それとはかなりずれた領域に自我とか言われるものがって、その自我の中核をなし同時に他者と自分を区分する為の外郭を成しているのが自己愛、今の時点ではこんなイメージでいます。
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