神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


思うままに漂う 唯一の事に集中する

2017年02月16日 09:00

自分の、生きてきたであろう痕跡に想いを巡らす時、自分の歴史のどの部分に確実さを感じるか、手応えを実感するか。
学生時代の、特に一時期、なんの責任も感じていない中で、これは責任を負わないのではなく責任を感じていない、だから責任を放棄していたという事なのかもしれませんが、ただゆらゆらとクラゲのように漂っていただけなのかもしれない時期。
社会人になってから、深い思考のない中で社会にそれなりに適応し始めて、自然と徐々に仕事にのめり込んでゆき、後から振り返って思うに、その、仕事をしている自分というものだけが、自分の全てになっていた時期、妙な高揚感と充実感を伴って仕事で自分を表現する事だけが、自己愛を満たし、そしてより一層プライドを強固にする役割を果たしていた時期、仕事以外の全てをないがしろにする事すらも、誤ったプライドの生成に一役買っていた時期。
自分の歴史の中で、この二つ以外の時期に想いを寄せてみても、そこに大した意味や実感を見出すことが出来ない、という戸惑い。
おぼろげなパステルカラーのシャボン玉がユラユラと漂ってはハジケてゆくだけでしかない虚無、本当に自分の経験だったのかどうかすら定かではないような足場の不確かさ。
・・・・・・全くなにものにも規定されない中で、思うままに漂い続ける事。
それとは正反対の・・・・・・より多くを犠牲にして一つの事柄に集中する事。
どちらも、社会的人間の像としては、少し危うい状態である事には違いないのですが、この二通りの在り方が、そしてもしかしたら人によってはこの二通りの在り方だけが、生きているという充実感や快につながってしまう、危険性を孕んでいるのかもしれません。
自分が心地よく在る為以外のすべての事には無頓着で利己的、自分が心地よく漂う為以外の事には一切興味を示さない、仕事以外の事には一切興味を示さずにその他を犠牲にしても何も感覚しない、というかその他には意識が全く及んでいない自分、という状態すらも充実感に変換してしまう。
その証拠に、あくまでも自分の歴史に落とし込んだ時、という事でしかありませんが、この二つ以外の歴史には、虚しさや後悔や哀愁が混在している。
まあそうは言っても、人間、バランスよく在るのが一番なのでしょう、内省やフィードバックが効くのって、バランスよくある時だけですしね、だから、人生の一時期という事なのであれば、これももしかしたら容認されるのかもしれないですけど。
どちらの在り方も利己的である事には変わりはなくて、ということは周囲にシワ寄せが行く可能性もあり、そして周囲がその態度を迷惑と感じた時点で、アウトなのかもしれないですけど。
・・・・・いい年こいた今だからこそ、そんなふうに思えるのかもしれませんが、そうなのであれば、人生とは虚しさであり、後悔や哀愁である、という事なのでしょうか。

—————

戻る