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惰眠を貪る、不甲斐ない自分。

2018年08月14日 09:56

「死ねよオマエ、オマエは仕事だけしてればいいんだよ、全てを犠牲にしろ、喜んで全てを差し出せ、今までどれだけの時間をやり過ごしてきたのか分かってんだろ、さんざん回り道ばっかりして、それも何十年も、可能性を狭め続けて今更、やっとイヤじゃない自分に辿り着いたとかヌルイ御託言いながらすかしてる暇があるんだったら人の100倍働けよ、今まで薄ぼんやりしてた分を取り戻せよ、自分が生きる意味にしがみつけ、命かけろよボンクラ、それが出来ないんだったらオマエ、死ねよ」
・・・・・・というような湧き上がり続ける自分に対する怒りを、よくお客さんに「いつ休んでるんですか?」とか「ストレス溜らないんですか?」とか聞かれるたびに「いや~、やりたい事やらせてもらってるだけだから・・・・・・・」という言葉に変換してお話しさせて頂きます。
気が付けば不甲斐なかった自分、に対する処罰なのかな、自己処罰欲求とか自罰パラノイアとか、精神分析的に言い表せばそんなような言葉になってしまうのでしょうけれどね。
過去に目を向けた時に湧き上がりそうになる後悔を焼き尽くし続ける為、そして未来に目を向けた時に、どこに辿り着くのか、もしくはどこにも辿り着かないのか、という事に想いを馳せた時に芽生えるのは不安なのでしょうから、その不安を焼き尽くし続ける為。
なんにせよ、自分の歴史を振り返った時、自分はあまりにも多くの時間をやり過ごし続けてきた、という事だけは確かな事実なのです。
時間を無駄にした訳ではありません、自分にはこの流れしかなかったのだろうし、この流れに存在したことによってのみ、今の自分になる事が出来たのでしょうから。
ただ、しかし、それにしても、そう在るしかなかったという納得の上において、それでも多くの時間をやり過ごし続けてしまった、眠り続けてしまったという、自分に対する腹立ち。
これは今更どうにもならない事であるだけに、腹も立つし、自分をもっともっと、全てを取り返すかのように、追い込みたくもなるのでしょう。
などという、なんというか本音、露悪的な語りとしての本音です、人が誰にも言わずに隠し続けている本音などはこの程度のものでしかない、だからこれからの時間は本気で大汗でもかきながら、笑顔で穏やかに頑張りたいな、とか思います。
未来のいつか、今の自分を振り返った時どんな事を思うのか、相変わらず満足はしていないのか、それとも、未来の自分は多少は納得してくれるのか、それはまだ分からないですよね、そして分からないからこそ楽しみなのでしょうし、希望という幻想を抱けるのでしょうし。
たぶん長い年月を経て、というのは紆余曲折の果てにという事ですが、今の自分の在り方に納得がいった時に初めて、それまでの自分が惰眠を貪っていただけであると思うのかもしれないです、特に狩猟的な生き方の場合はそうなのだと思います。
ところで「死ねよオマエ」とは誰が誰に言っているのでしょうか、思うに無意識の主体、ただしこれすらももしかしたら想像的設定なのかもしれませんが、しかし湧き上がる大きな衝動である事は事実であるように感覚する中、鏡像段階を経て想像的に同一化した不甲斐ない自我に対して言っている、というより責め立てている。
それか、設定された無意識の主体が対象aを直視しながら、その空白を何とかしようと躍起になっているとか、あとは、社会性を獲得する時に無意識内に据えられたファルス、このファルスを長い時間をかけて自己にフィットするように変容させて、そのファルスに想像的不甲斐ない自我を従わせようとしている・・・・・・・・とか。
まあまあ、ややこしい話はいいです、つまらない事を書いてしまいましたが、自分はこれでいいんじゃないかなと思います、自分に厳しくするという事は人に優しくするという事だし。


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