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神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
意味の彼方へ
2018年01月19日 10:03自己分析という不可能なものを試みようとする時、自分の核という、取り返しのつかなさ故に頭を抱えるどうしようもなさの周囲を慎重に、決して核を直視しないように無意識的に注意深く周回し続ける衛星的状態にとどまるしかない、という自己防衛的手段。
自己分析、自分の抱えてしまっている事実へのダイブ、もしダイブしたとしてそこで発見可能な唯一というのは、空白の自分、空虚な自分、何の意味もない自分、圧倒的な欠如体、実は何も書き込まれてはいなかった自分の意味。
圧倒的な欠如体でしかない自分、その空白の核を、思想や信条、信仰で埋めようとするという仕方も勿論ありなのでしょうし、ただただ現実を現実のままに、意味を持たない自分という驚愕的な現実・・・・・・人によっては絶望的な現実、ただ、その絶望というのはナルシシックな幻想でしかないはずですが・・・・・・を直視し、その事実を愛おしさと共に抱きしめさえしながら、だからこそ自分は自由に何かを選択し続ける事が出来る可能性がある、と。
空白でしかない部分を何かで埋めて安心しようとするのか、その行為というのはある瞬間は安堵につながるのかもしれませんが、突き詰めればその埋めたものに規定され続けるという事なのかもしれません・・・・・・・・それは自由という事ではない、思想、信条、信仰に規定される自分という、ある意味それこそが、人によっては絶望と感じるのかもしれない、逆に安堵につながるタイプの方も勿論いらっしゃる、だからこれは間違いなくその人次第、どちらも責められる必要はないし、どちらの仕方も肯定されるべき。
自由というのは、自分の無意味さに耐え、それを直視しつつ乗り越える身振りの中にだけ存在するのかもしれません、どうにでも自分の意思で選択創造可能な、自分の意味。
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