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愛という執着

2019年10月05日 17:23

「愛とは、ある一つの主体が別の対象に向ける執着であり激烈な感情、それはしばしば両価性を持っている」というのが間違いのない、自明、だから愛とはその程度のものでしかないのだろうけれど。
愛とは奪うものであるとか、与えるものであるとか嘯かれつつ、そんな本質を実践してみたところで虚しさにしか行きつかない、破壊、切断、消化・・・・・・これは勿論精神的にという事ですが・・・・・・・その結末は、全てが跡形もなく消え去るしかない虚しさ。
でも、実際に奪おうとしても奪えるものではないし、与えようとしても拒まれればそれまでの事、ああでも奪う事の方が簡単でしょうか洗脳という手段がある限り、しかし、支配したところで相手は人型ロボットになってしまうのだから、やはりそこでは不気味の谷に落ち込むジレンマだけを実感する、そしてより激しく支配しようと躍起になり、相手を破壊し跡形もなく消化し尽くして、それで終わり。
こんなような具合の愛などというものは乗り越えてその先に到達した方がいいのだろうけれど、その在り方というのはシミュラークルなのか、だからもしかしたら彼岸という事なのかもしれません。
愛、煮えたぎる情動、本能的動物的欲望もしくは単純な欲求、貪り尽したいという衝動、これらは本質的であり無意識的でもある。
人類愛とか慈愛とかはこれらとは別の領野での話、それは理性によってなされるもの。
貪り尽したい衝動に身を任せる事を何度も何度も経験し、その虚しさを嫌と言うほど実感するという迂回の先でのみ、それらを経験し尽くした先でのみ、奪うとか与えるとか言う陳腐に蔑みの視線を投げかけながら、ただなんの見返りも求めないままに守りたいという衝動、これはもしかしたら守り合いたいという衝動の場合も多々見受けられますが、そういった・・・・・・・愛のその先でのみ実践可能な行為。

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