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操作される感情 湧き上がる感情
2017年10月22日 10:56ドラマ、映画、実話の回想シーン、流されるさまざま映像に差し込まれる音響、その音響を聞かされた瞬間に感動して涙を流したり、悲しみにまみれて涙を流したり、大笑いの場合はまた手法が違ってテロップや効果音ですね。
音響の効果として感動が増幅するという以上に、音響がメッセージとなる「はい、ここ感動するシーンです」と、それか、空気を読むことに慣らされた僕らは、メディアから感動する事を許可されたように感じて、今自分の中にうっすらと湧き上がり始めている観念、これは感動という事で正解なのだ、と自分が間違っていない事を確認し、安心して涙を流す、その安心感は正解に行き当たった安心でもある、だから音響が流された瞬間に安心して感動できる、泣ける。
涙だけではなく笑いの作法にしても、いつの頃からなのでしょうか、こういった操作に慣らされ始めたのは。
あまりにこれが進んでしまうと、感情は自分の中から湧き上がってくるものであり続ける事が、ちょっと、難しくなってくる、感情は外から与えられるものになってくる。
外から感情を与えられた瞬間に、自動的にその与えられた感情を表現する事が可能な人間、これは進化なのか、主観の排除、自発的な感情の排除なのか、究極的強迫的に空気を読む進化した存在なのか。
多分その時には、自分独自の思いとか価値観とか、そんなものはどうでもよくなってしまったり・・・・・・・ただ単に、動かされる方向へ流されてゆく、その事に違和感を感じる少数の人、流されるのが楽だと感じる、もしくは初めからそんな事には想いが及ばない多数の人。
いつか、そんな様な事態に成り下がってしまったら、ちょっと寂しいですけれど。
自分の感情は出来れば自分のものであり続けた方がいいのでしょうし、それは価値観や考え方もそう、そんな主観性の中で何かに出会うところに大きな喜びがあるのでしょうし。
なんか話が微妙に逸れてゆきましたが。
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