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新たな自分 意外な自分
2017年07月12日 09:36思うに、自分は、希望や絶望というものから距離を置きながら、それらを意識的に遠ざけながら、生きているのかもしれません。
というのも、絶望してしまったら上手く生きる事はできないし、逆に希望というパラノイアックな虚構をもし見据えたとしても、現実的には何処へ向かえばいいのか、迷うばかり。
まして希望と絶望というのは表裏一体、センシティブな中では簡単に反転してしまう。
人は誰しも、自分の中でまだ顕在化されていない要素、いまだ知ら無い自分、まだ表象されていないもの、もし、生き続ける中で、多様体としての自分の潜在性の一つでも多くの部分を、見出すことが出来るのだとしたら。
それは流れの中ででの自然な形の意識の変化のもとでであったり、環境からの効果的な刺激のもとでであったり、要するに自分以外の他との関わりの中で受ける刺激、これはメディアでも、人でも、それ以外の何らかの経験でも。
そういう場所で受けた刺激によって、自分の潜在性のうちのどれかがおぼろげに形を成し、それがもし、いいものであるように思えた時、それをなんとかして表象しようとする、具現化しようとする。
生きている間に、というかこれは生きている間に成すしかない事なのですが。
自然に流れる中で、自身の潜在性の中から一つでも多く、新たな要素を見出し、それを形にしてゆければいいのかなと、逆にそうじゃないと退屈なような気もしてしまって。
仕事でも、人間関係的な事でも、性格的な事でも、熱中できる何かとかなんらかの才能とか。
今に自分の在り方が自分の全てである、などという事は決してないのでしょうし、もしかしたらワクワクする楽しいものが、まだ自分にすら気が付かれないままに埋もれているのかもしれませんし。
自分を見出し続ける事、それは、一つでも多く、突き詰めればこれだけが、生きている意味なのかな、とか思う時もある。
その為には、なんらかの刺激を入力し続けるのがいいのでしょうが。
「新たな自分との出会い」とか「意外な自分の一面の発見」とか僕が言っても、それは多分気持ち悪いだけなので、妙に硬い表現に終始してしまいましたが。
新たな自分や意外な自分、それは今までは生成表象されていなかった自分、、そういう自分こそが、自分が流れる方向を大きく変えてくれたり、幅や深みをもたらせてくれたり、そしてそういう事は生を実感する事や喜びや充実にもつながりますし、逆に言えば、これをせずに死ねるか、みたいな想いもあるかもしれませんし。
ポテンシャルとか可能性とは違うような・・・・・自分というのはさまざまな要素に分化可能な濃縮された液体で、その濃縮体の中から刺激によって自然と立ち現れてくるイメージ、自然と生成されるイメージ、新たな意外な自分、でもそうなると、苦手意識というのは思い込みである、みたいな話にもなってしまうのですが。
すみません、寝起きでボーっと書いているので、ちゃんと説明になっていないですね。
そういえば「可能性にかける」という言葉というのは、色々に使われます、イチかバチかみたいに使われる事もありますね、これはあまりよくない。
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