
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
曲解 呪縛的 エディプス的
2017年12月24日 10:19父・母・私という構図、古典的スフィンクスの謎というおぞましさ。
ポストモダン、もしくはポストモダン以降、糸の切れた凧のように潮流なのか、単なるムーブメントなのか、なにかそんなようなぬるい風に身を任せつつ混沌を漂うしかない今という時代において、ある個人的な事象や問題の中にそのおぞましいスフィンクスの痕跡をクッキリと見て取る時、究極的苛立ちを隠せない、隠すつもりは毛頭ない自分。
もしかしたらエディプスというのは近代資本主義を理想的に取り行い続ける上での偉大な発明だったのかもしれないし、資本家の野望を巧妙に隠蔽するための高度に洗練された概念だったのかもしれない、発明当時には幸せの条件ですらあったのかもしれない。
・・・・・でも時代は流れる、流れ続ける、時代の要請によって生み出されたものでしかない、のかもしれないものというのは、美しい、そしてかつての桃源という理想として、ファンタジーとして、ノスタルジックな過去に幽閉したっていい。
かつての時代に、人を人として成り立たせていた条件に、時代が流れても囚われ続ける時それは・・・・・・特に病理的な様相としての父親の機能などは実際、没入状態の中で見出そうと本気で思いさえすれば、そこかしこに見い出す事はいつの時代でも容易なのでしょう、そしてその事は力関係で上に立ちたいものに大きな有利をもたらす。
会社の先輩、上司、同僚、時には後輩、そして行きつく先は自分以外の全ての「男」の中に自分が従うべきものを病的に見出す、そしてそれは何度も何度も、自分の経験や自分が何歳になったとか一切関係なしに。
何故常に、力関係で相手の下に滑り込まなくてはならないのか、何故それを強迫的無意識的に反復し続けてしまうしかないのか、自分というのは自律作動する、あくまでも一個人ではないのか。
時代と共に機能しなくなった、そしてとうの昔に幸せの条件ではなくなった概念などは、どんどんぶっちぎってゆけばいい・・・・・・・という、悪意を多少込めた上で大袈裟に曲解したお話でした。
ただ、実際の話、力関係で常に下に滑り込みがちな場合は、ちょっと意識してもいい部分である事は確かだと思います。
時代、時代の流れ、男、精神的に従うべきものなどはない、尊重し合うものがあるだけ、打ち破り、乗り越え、断ち切り、和解の後に訪れるリスペクトの好循環。
僕らはいずれにせよ社会性生を持つ時に、父の名を受け入れるしかない、しかしそれは古典的フロイト的ではない方がいい、実際の父親などというノイズでしかないものではない方がいい、法とか理念とか倫理とか、取り敢えずの観念的なものを構築解体し続けるのがいい、まあ、法を受け入れる事は当たり前ですけれど・・・・・・・どんどん話しが逸れて長くなるのでこの辺りでやめときます。
—————