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最も身近な他人

2017年04月07日 08:59

他人に大きな気配りを欠かさない人・・・・・・一緒にいる人は楽ですね、気分いいんじゃないでしょうか。
本人は気を配り過ぎて疲れてしまう事もあるでしょうが。
でも、もしその心性がその人の割と深い部分に根ざしたものなのだとしたら「気を配り過ぎるのをやめましょう」と提言したところで、他人に気配りをしないという事がストレスにもなってしまう。
だから本当は、他人に気配りを「欠かさない人」ではなく、気配りを「欠かせない人」という事なのかもしれません、それは時として、自分がすり減り続ける位に過剰に。
気を配れば疲れてしまうから、気を配らないようにしましょう、と言っても、気を配る事がその人の今の心性であるのならば、それを禁止する事自体がストレスとなって、そうなると今度は気を揉んで疲れてしまう。
他人・・・・・自分ではない人、自分とは違う思考を持った人。
自分にとっての一番の他人、一番の他者は、自分そのものであったりもします。
環境の中で、大きな気配りと共に作動している、うっすらとした自分のようなもの・・・・・それを観察している本当の自分なのかもしれないもの。
環境の中で他人と関わる、その時に素の自分でいられるのかと言うとそういう訳ではなくて、その場の空気に応じた、その都度のキャラが生成される、それは自分の意思の枠外で、時には唯物論的に。
この時の主役は間違いなく、環境内で作動している自分のようなもの。
環境内には他人が沢山いて、その沢山の他人がいる環境に自分のようなものが溶け込んだ時点で、その自分のようなものと言うのは、本当の自分なのかもしれないものにとって、他人の筆頭になる・・・・・という事は、気遣いの対象になる。
自分の意思の管轄外でキャラが自動的に対応している、その場の空気感によって自分の意思に反した言動を繰り返している、本当の自分ではないもの、本当の自分から見た時、それは他人でしかない。
ーーでもそれは悪い事でもなんでもなくて、自己同一性など捨て去って、あちらこちらに生をちりばめるという、可能性に満ちた行為・・・・・他人と関係しなければ自分という人間は生成・認識されませんからねーーー
ちょっと話が逸れましたが・・・・・・では、そのまるで他人のように見える自分のようなものを含めた、その場に居合わせている人に気配りをすれば・・・・・・・・・自分も周りの人と同じように気分良くいる事ができるのか、そうしているうちに気配りのバランスが取れてくるのか。
時に自分というのは、素の自分の意思に反し続ける他人の筆頭である、と言う、ややこしい話でした。
この現象を本意や本音に反し続けるダメな自分、と捉えるのか、可能性を見出し続ける逞しい自分、と捉えるのか、人それぞれだと思います。
空気感の中で自動的に自然と発生した自分のキャラ、このキャラが新たな自分を見い出してくれる事だってあります、自分の可能性を広げてくれる事だってあります。
そもそも今の時代において、自己同一性というのは本当にあるのか、もしくは必要なのか、自分がその事によって生き辛くならない限りにおいては、あってもいいし、生き辛く感じるのであれば捨て去ればいい、みたいな事は、時々思います。
思いつくままに書いているので、どんどん話しが逸れてゆきました。


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