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最大公約数的な美

2017年08月01日 09:01

何に美を感じるのか、何を美しいと思うのか、美しさとは何たるかというのは、人から教えられる、もしくは押し付けられるものではない、自分の外部から教育・常識という名目でもたらされる知識ではなく、自分の内部から湧いてくる感覚でしかない・・・・本来は。
・・・・・・最大公約数的な美の定義ってなんだ? という事は思います、でもその最大公約数的な美の定義があるからこそ、ミス○○とかが成り立つのでしょうが、まあ、商業ベースなのかもしれないですけれどね、そういうイベントにはさまざまなスポンサーもつきやすいのでしょうし、消費社会な訳ですし。
何を美しいと思うのか、何にみとれるのか、何にため息をつくのか、そんなものは個人的な見解でしかない訳だし、何を美しいと思うのかという事は、確実に個人的な想いに基づく感覚でしかない。
それは唯物論的に、もしかしたらある瞬間に掴み取った一瞬の痙攣なのかもしれない、そしてその切り取った一瞬を頼りに対象に侵入してゆくという焦燥を伴った欲望。
もしくは倒錯的に感覚し続けるアウラ、そうだ、倒錯というのは重要な要素なのだと思います、人は簡単に倒錯可能だからこそ愛を覚える事が出来る、という醍醐味。
ミス○○がどうのこうの、みたいな話を聞いたもので・・・・・なんか半ギレ状態で書いておりますが・・・・本来、何を美しいと思うかというのは個人的な感覚でしかないにもかかわらず、みんなが美しいというものを自分も同じように思い込む、これって美のすり込み? 人は最大公約数的な美を、すり込まれるのか、その美の定義は誰が決めるのか、そしてそこから逸脱しないように細心の注意を払いながら、みんなで同じものに対して美しいと、称賛を向けるのか、それは、ありきたりな理性の元で。
そもそも美を定義する事に何の意味があるのか、多分商業的には大きな意味があるのでしょうが、個人の、特に恋愛感情と直結する美については、最大公約数的な定義など、何の意味もない。
最大公約数的な美の持ち主と一緒に歩いて、人からそれを羨ましがられたいという、ナルシシズムを満たす為ならまあ、それはそれで、まあ。
自分だけの感覚で、自分が美しいと思った人に「あなたは美しい」と堂々と言えばいい・・・・・・でもそういう態度というのはドン引き間違いなしなのかもしれませんが、でも美しいと思ったのなら、それを正直に伝えればいい。
どんな形のものであれ、個性というのは、そして固有性というのは、最も美につながりやすいものであるように思います、いや、これこそが美であるといってもいいようにも思う、極端に言えば。
ちょっと、すいません、言い回しがいつにも増してややこしいですが。


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