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本当の自分と社会との和解点

2016年12月03日 09:14

「本当の自分」という言葉は、様々な文脈によって語られます。
その「本当の自分」というのは、究極的には、厳密には探しあてる事は不可能なのかもしれないですけど、と言うのも、それはただ一つの自分、唯一の自分というものではないようにも思えるから、でも見つけ出した方がいい事は間違いないですね、その先に自分独自の幸せというものがある訳ですから。
苦労の末に、一つ探しあてて、その自分と共に日々を歩んでいる時、またそれとは別の本当の自分が発見できたりもして・・・・・だから本当の自分というものも、自身の経験や学習によって多様に変化してゆく、もしくは最初から一つだけではなくて、二つ三つの本当の自分が存在するようなイメージもあって・・・・・もっと言えば、どう頑張っても認識しようのない「本当の自分の元」から分化して出現する「本当の自分」とイメージし納得する事の出来る自分。
多分、本当の自分という事について考える時、どんな文脈だとしてもセリーとして最初に排除しなくてはいけないのは、世間体とか教科書的な理想像とか、常識と思われている範疇の無意味な部分とか、子供の頃から徐々に刷り込まれていって、自分の一部をなしているように錯覚させられている、こうあるべき、という刷り込みみたいなもの(これが自分の一部と錯覚しているのではなく、本当に自分の一部にうまく取り込めている場合は、それでいい訳ですね)。
そんな中で、本当の自分とイメージできるものが見つかったとして、それが純粋なものであればあるほど、社会との和解というか、自分の想いと社会的環境との間の、落としどころ、これが必要になる場合もあるのだと思います。
本当の自分が生きる場所というのは、他でもない、社会の中なのですから、そこで表現させてもらって初めて、本当の自分でいられる事の喜びを感じる事が出来るのでしょうし。
少しトーンダウンして言えば、本当の自分を見つけたとして、それが純粋であればあるほど、社会との和解点とか妥協点というものが必要になって、そうなると真性の純粋な本当の自分を表現するというよりは、本当の自分から少しずれた「満足がゆく範囲での妥協点としての自分」を表現するという事なのですね・・・・突き詰めた先で独りよがりに陥ってしまわない為にも。
「本当の自分」と設定されたものが、純粋であれば純粋であるほど、それは自分独自の想いである場合もありますし、倫理や秩序が排除されてしまっている場合とかも・・・・・だからそういう時には、社会との和解点が必要なケースもあるのかなと。
「本当の自分」だけを頑なに表現しようとした時、孤高に至ってしまわない為にも。
「本当の自分」と「現状の自分」の狭間でジレンマに陥らない為にも。

と、極端な事を書いてしまいましたが、それはナルシシックに一方向に突き詰め過ぎた時の歯止めとして、どんなに良いとされている事でもそうなのだと思いますが、極端に一方向へ走りすぎた行きつく先というのは、それは必ずしも生きやすい幸せな場所とは限らないと思っているので。
多くの場合、行きつく先みたいなところがどういうところなのか認識した後、納得がいく領域まで徐々にトーンダウンしてゆけばいいのかな、とも思います。

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