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本心に近い事

2017年09月18日 09:23

・・・・・・・ちょっと長い文章ですが、自分の本心に近いであろう事を書きました。
アルコール、食、ギャンブル、買い物、etc・・・・・・様々な種類がある嗜癖としての依存。
その嗜癖としての依存の一種、他者に対する依存、人に対する依存。
自身の環境の中で溜め込んだストレスを解消する目的も含めて、他者に嗜癖として依存する、自信のなさや不安や苛立ちを解消する目的で他者に嗜癖として依存する。
それは幼児が母親に対して向ける依存心と何ら変わりはない場合も多々ある、もしくはそれ以下、そう、多くの場合それ以下ですね、そこには聞き分けという概念は存在しないのですから。
他で溜め込んだストレスを依存対象に向けて一気に爆発させる、幼児のようにしつこく自分が満足するまで相手の都合はお構いなしに纏わりつく、自分が納得するまで駄々をこね相手を責め続ける、意に反して拒絶されたと感じた瞬間に「だってこの前○○だって言ったじゃん、結局見捨てるんじゃん」と屁理屈や曲解でしかない訳の分からない妄想的言質を盾に癇癪を起こし続け相手を追い込む。
この癇癪に晒された常識的人物は驚愕し、以降、相手の意に添うように、気持ちを逆なでしないように、細心の注意と心配りを欠かさないようになる・・・・・・・という事が暫く続いている間は、嗜癖としての依存者は満足を得る可能性がない訳ではない、どこかでストレスを受けてきたとたんに豹変する事も日常茶飯事ではありますが。
ただ、常識的人物にもその人なりの日常があります、にもかかわらず相手から突き付けられているのは「100%自分の為に生きよ、全てを犠牲にして自分の為だけに存在せよ」という命令、これは、どうにもこうにも聞き続ける事はできないという現実。
自分の日常に一生懸命なって相手に対する集中が途切れた一瞬、迂闊にも依存者の意に反してしまう事もある、そこでまた、幼児以下の癇癪が発動される。
これを繰り返すしかない中で、常識的人物は急速に疲弊してゆく、精神と身体に異常をきたす。
常識的人物は、自分が何とかしてあげたい、根気強く色々と話をして相手を支える中で成長させていってあげたい、話せば分かるはず、と考える訳ですが、多くの場合その努力は徒労に終わる。
相手が求めているのはただ一つ、意のままに動き、全てを許し、全てを受け入れ、決して期待を裏切らない、心地よく抱き続けてくれる幻想としての母親の機能でしかないのですから、そして両者は対等ではない、力関係で言うと依存者の方が圧倒的に上。
これはよくある話です、まずは渦中を脱して頂きたい、僕は今こうしてキーボードを打っているだけで吐き気がしてきます。
この構図というのは、一見男女関係にだけ当て嵌まるようにも見えますが、希釈していった時には、やたらと粘着質なパワハラ上司と部下、等にも当て嵌まるものです、ただ、上司が部下に「見捨てるんじゃん」とは言いませんし、部下が上司を何とかしてあげたいと根気強く寄り添うなどという事もない訳ですけれど。
ああそうだ、多くの場合、嗜癖としての依存者のターゲットとなるのは常識的配慮的で穏やかな優しい我慢強い人物である印象が僕にはあります、そういう人に嗜癖としての依存を向けストレスを処理しつつ、他の場所では他者配慮的な感じの良い人を緊張や不安や自己嫌悪の中で演じる、という事もあります。
・・・・・僕自身は境界性的な人格にしても自己愛性的な人格にしても、自覚的でありさえすれば余裕で普通に受け入れる事が出来ます、あまりにも辛ければ自傷やODもしたくもなるだろうし守られて安心したくもなる、プライドに抵触すれば攻撃したくもなるだろうし許せないものはどうしても許せない、それは自分にも元々備わっているであろう要素だし、若い頃は自分もそのように在ったのかもしれません、ただ僕の場合は年齢や経験と共にあるタイミングで真逆に振れただけの事であって、気持ちは十分に分かる、だから一緒に乗り越えてゆきたくもある、しかしこの嗜癖としての依存にだけは嫌悪しか抱かない、これはそう、嗜癖としての依存を向けられる中で青年期以前を過ごさざるをえなかったから、だから嫌悪感しか芽生えないのですね、あとハラスメント的な人物にも大きな嫌悪しか抱かない。
この部分に関してだけは今のところ成熟するつもりは一切ないし嫌悪は向け続けます、そんな中、嗜癖としての依存を向けられ疲弊している人達の力に、多少でもなれればとも思います。
なんか自分自身の事というのは・・・・・・そう、言わなくてもいい事を言ったような気もしなくもないですが、まあ、たまにはいいのかな、と。


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