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果汁はほとばしる訳ではない

2019年04月08日 10:54

ドライフルーツには知の領域での満足しかない、そこで取り残される情動的欲求不満、衝動には対応しようがい干からびた欠片という栄養素の宝庫。
栄養素を摂取する事によって満足できるのは理性であり、衝動は決して満足する事は出来ないという事実、いわゆる一つの自己完結であり自慰行為でもあるかのような様相を呈しつつ。
衝動はどうする、パッションは、ドライフルーツを口に含んで、そこで衝動が満足を得るという事は決してない訳で、そういえばパッションフルーツというものがありました、じゃあそのパッションフルーツを乾燥させたものは、どうなのでしょうか、自己完結から飛翔する事は可能なのか、いややはり、無理。
果物、フルーツ、果実、果物を果実に昇格させなくてはいけないのだと思います、ただ、果実、その果実に含まれている果汁というものは別にハジケル訳ではない、あれは単なるイメージの中でのお話であって、果汁というのは、そう果汁を貪るにはその果実に対する刺激が必須、それは唇や舌や歯を用いてでもいいし、吐息を用いてでもいい、そこで初めて果実は反応を示す訳ですね、それら与えられた刺激に呼応するかのように果汁を滲み出し始めるという・・・・・・・ああそう一つ忘れていました、もしかしたら、というかこれが一番大切であるようにも思えます、それは言語。
言語の浸透に呼応するように果汁が提出される。
・・・・・・・・・・さてこれは何の話か、あまりにもメタフォリカルでさっぱり分かりません。

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