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棄却され続ける手紙
2017年10月21日 10:30生きていれば大なり小なり、日々さまざまな選択をしているのかもしれません、とるに足らない事も含めて。
選択は多くの場合、大人であれば理性によってなされる、より良い方とか、どちらが正解かとか。
理性にとっての正解と、無意識にとっての正解というのは、全く異なる場合も多々ありますね。
理性にとっての正解を選択し続けているうちに、それはもしかしたら大人として賢明な選択をし続けているうちにという事なのかもしれませんけれど、その選択を繰り返し続けているうちに、なにか後ろ髪を引かれるようなというか、湧き上がる一抹の寂しさとか、だからずれていってしまうのかな、そのずれを無意識が容認しているのであれば寂しさは湧き上がってこないのかもしれませんが。
だから普通に言えば「心の声に耳を傾ける」という事でしょうか。
心というか僕は無意識だと思っているのですが、その心や無意識というのは、日々の選択時に常にメッセージを発し続けている、でもそれは理性にとっては不都合なメッセージである場合も時にはある、大人としての選択と無邪気な子供のような、時には喜びを伴った選択の違い、とも言えなくもない場合もあるのでしょう。
メッセージは棄却される、メッセージを棄却された心や無意識は、寂しさと共にその主張を諦め、また次のメッセージに賭けようとする、メッセージはどんどんたまり続ける、いや棄却された瞬間無意識は諦め放棄するのだから、メッセージというか一回限りの手紙、無意識が理性に送る手紙、一方通行の手紙、これが滞り続ける、無意識は理性に対して、読まれるかどうか分からない手紙を何度でも送り続ける。
・・・・・・しかしなんだこれは、収拾のつかない話になってしまいました、無意識からの手紙を読むのか、読まないで棄却し続けた結果どんどんずれていってしまうのか。
無意識からの手紙というよりは、在るのか無いのかすら定かではない、無意識の主体からの手紙、という事でしょうか。
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