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欲望の際限のなさ
2020年09月16日 19:33回り道ばかりしているように感じるというのは。
一点を見据えて、そこにわき目もふらずに一途に突き進むという生き方、それに対して、流れの中で選択を繰り返し続ける(そこでは時には何も選択しないという選択も含めて)という生き方。
生き方の違いというのはやはりあって、一点を見据えているのであれば回り道はしようがない、試行錯誤は当然あるにしても。
流れの中で選択を繰り返すという生き方、これは自分の潜在性を楽しもうとする生き方であるとも言い換えられるのかもしれないですけれど。
流れの中で選択を繰り返すという生き方の場合、回り道をしているように感じるのか、でもそれは何に対しての回り道なのか、回り道と表現するのであれば、それはやはり何らかの目的に対しての回り道なのでしょうしね。
その目的というのは観念的な目的なのかもしれないし、漠然とした思いなのかもしれないし、こうなったら楽しいな、的な。
目的というのは、満足、達成感、喜び、なにかそう言った、ほわっとしたもの、一点を見据えている場合には、なりたい自分であるとか、確固たる目標とか、物理的な何かとか、そういう具体的なものが存在するのに対して、流れの中での選択の場合は特に具体性はない、だから満足、達成感、喜びを感じられるであろう何かに出会えることーー出会った瞬間にはそれは目標になる訳ですがーーという事であればそれでいい。
流れの中で、そういうものに出会える事を楽しみにしている・・・・・という生き方というのも十分にあり。
満足や達成感や喜びというのは、それを得た時の一時的な感覚でしかない訳だし、そこに安住しようとしてもそれは無駄な事であって、安住というのは退屈を呼び込むし、その先に待っているのは衰退。
「欲望の際限のなさ」というのは肯定的な意味で人間の基本ですし、流れの中で何かを選択し続けて、その選択の結果として一時的な満足を得て、そこに安住するのではなく、一休みしながら幸せな感覚に浸って、それに飽きそうになる前に又流れの中に戻って選択を繰り返す。
そういう状況の中では、回り道ばかりしている自分、というものを感覚しやすいのかもしれません。
そこで探し続けているのは、幸せを実感できる何かであったり、満足や達成感を感じる事の出来る何かであったり。
幸せを探している、そして幸せに出会え、それを掴み取れたように感じた時「回り道ばかりしてきたけど、これでやっと・・・・・」という言葉が発せられるのだけれど、そこに安住する事はできない、一通り噛みしめた後は退屈するし飽きるし衰退を呼び込むし。
だから流れに戻ってまた選択を繰り返しながら、幸せに出会う事を楽しみに・・・・・・・。
「人間の欲望の際限のなさ」手に入れる、飽きる、もしくはもっと欲しくなる、時には、なにも欲望しない、という欲望すらある、なにも欲望しないという在り方を欲望する、という欲望の形、ミニマリスト的な事もそれに近いのか。
それらの欲望があるからこそ、流れに戻れるのだし、また選択を繰り返せるのだし、欲望というのはいい意味で、生きる為の原動力だし、いい意味で際限がない。
欲望という言い方がよくないのかもしれませんけれど、イメージが悪いのか、じゃあ、希望とか満たしてくれるものとか、光とか、いや、やっぱりしっくりきません、欲望です、日本語じゃなければいいのか、じゃあ、デジールとか。
どんどん話しが逸れてゆきました。
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