
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
潜在性の宝庫としての
2018年01月07日 18:28今日、19歳の青年に聞かされて気がついた、明日は成人式、そうなのね、成人の日、いつの頃からか15日ではなくなってしまったので、気にかけていないとただの連休にしか思えないですよね。
20歳、ハタチか、良いのか悪いのか、まあいいに決まっているのですが、いいですよね、まだまだ一切芽を出していないのかもしれない、潜在性の塊、刺激によってさまざまに分化生成可能な潜在性の塊。
可能性の塊とは言いたくはないです「こういう自分になれる可能性がある・・・・・」という、可能性は即座に確立論に変換される、成功する可能性○○%とか、それは行動しない理由にもつながってしまいますしね、あとそう、ここで言っているのは潜在意識とは別の文脈です。
自身の潜在性の中から外部刺激によって何らかの要素が立ち現れてくる、外部刺激をもたらしたのは自分が関係する人、立ち現れた要素はその人、もしくはその人達との関係性の中で徐々に効果的に機能し始める、時には手助けされながら、そこには可能性という確立論が入り込む余地はない、何事も自然の流れとしてなされるのがいいのでしょうし、それはもしかしたら才能とか言う言葉で言い表されるものなのかもしれません、才能なんか誰だってなにかしら持っているのですし、これは自分で見出すものというよりは他者との関係の中で見出されるもの、自分の事なんか自分が一番分かっていなかったり、というのも当たり前です、さまざまに見出された後に取捨選択したっていい、ストイックに焦燥と共に可能性にかける事と、自然体で楽しみながらの違い、とも言えるのかもしれませんが。
一昔前に言われた自分探し、これだって自分一人で自分の中を一生懸命探してみたところで決して見つけ出せるものではない、他者と関わる事によってのみさまざまな自分が発見できる、自分探しの旅は他者と関わる中で刺激を得るという精神的な旅でもある。
でもそう若い人に限らず、僕らは何歳になっても潜在性の塊でしかない、いつからだって思いもよらない新たな自分が他者との関係性の中で生成され、ただそれには決して諦めてはいけないし満足しきってもいけない、足るを知るの外側で、諦め、満足、足るを知る、それはある意味、器官なき身体で居続けるという事でもある、そんな状態の中でどこに生きる意味を見出せばいいのか。
今の時代、僕らは可能性にかける為に生きている訳じゃないと思うんですよね、今はまだ立ち現れてきていない自分の新たな要素に、それは素質とか本質とか本当の自分とか言われるものなのかもしれないけれど、なにかそういった新たな自分に出会う為に生きていると、ある方向から見た場合には言えるのだと思います。
だから自分を、どんどん新たな環境に投げだしてゆけばいい、そこでは必ず刺激によって新たな自分が生成される、それが気にいる自分の場合もあるのだろうし、逆に気にいらない自分の場合も、気にいらなかったら内省して、また進む、経験を重ね続ける。
可能性にかけ続けるヒリヒリ感は生きている実感につながりやすいことは確かですが、そしてそういう傾向を持った人というのも確かにいらっしゃいますけど。
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