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澱んではいけない

2021年03月23日 12:21

水、水、水、物心のついた頃から自分に執拗に付いてまわる水のイメージ、何かの小説で脳の事を水の通う回路と表現していたり、身体の事を水の入った袋と表現していたりして、これにはなるほどと思いました。
ただここでは、それは措いておいて、男児の頃は優しく遊んでくれた近所の芸者さんや住んでいた家の裏手のお姉さんに水を感じていたし、中学生以降に特に親しくさせてもらった異性にも水を感じていた、その誰もが切れ長の目元、色白、ほっそりしている、という自分の中での静岡のイメージの女性、その後水を感じて衝撃を受けたのは資生堂のシャワーコロン、あの匂いは水のイメージにピッタリだった。
学生の頃まではそういった水のイメージに同一化するかのように人や物に惹かれたのだけれど、そこえ自分の水が確立されたからなのかどうなのかはよく分かりませんが、社会に出てからは自分は水であるという明滅的徴候のもと、そう、水というのは流れ続けるしかない、ひと所に留まれば濁る腐敗する、それを避ける為に流れ続ける、なにかこんなような事を自分の唯一のアイデンティティとしていたように思います。
今現在も、ここ数年思い続けている水のイメージの最終形態のような女性がいらっしゃるのですが、やはりこれも自分の中での静岡のイメージ、ああこの静岡のイメージは就職当初に初めて西湘地区の方々と関わらせて頂いて、この辺りまで裾野を広げている。
水としての自分、水のような女性、自分の出自である伊東、その幼少期に優しく接してくれた芸者さんやお姉さん、それは自分にとっては母親代わりだったのかどうかは考えるつもりもありませんが、水、羊水、胎内回帰という究極的退行にカタルシスを感覚する、などという陳腐では決してないと断言したいし、完全に否定したいなかで・・・・・・・・・・まあ、そう、流れ続けて、場所を変え続けて、常に澱まずにいたいようにおもいます、もしかしたら水のイメージの女性を見出すというのは、補充、その人と同一化して自分にない新たな水の概念を取り込みたいとか、もしくは薄汚れてしまった自分を再生したいとか、観念的に思っているとか。


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