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父は存在しない

2021年05月24日 09:33

母なる○○、この○○には様々なものが入る、海、森、大地、大自然、大宇宙、自然それも優しい自然のイメージ、生命を生み出す場所というか生み出すシステムそのものをさしているかのような印象もあります、生み出して抱きしめて優しく育んで温もりたっぷりで。

自然そのものをさしているのか、自然は優しいだけではなく災害ももたらしますね、でもなにかこの災害の部分には目を瞑ってしまっているような気もします、自然災害を母の怒りには結びつけようとしない僕ら、地震雷火事親父というように、自然の災害、暴れまわる手のつけようのない自然は親父、どちらかというと父のイメージですね。

切断、破壊、断罪、絶対的に立ちふさがるもの、父性のイメージ。

結局、母は暖かく優しくて父は怖くて厳しい、ただそれだけのイメージであるかのような・・・・・・・・・・・・とかいう事じゃなかったです書き始めに思ったのは。

生命が生み出される領野、それ自体を指し示して「母なる」というメタファーでナルシシックに包み込む、その時対をなす父はどこにいるのか、とか書き始めには思っていたのですが。

結局のところ始めから落胆と共に結論は分かっていて、生命が生み出される場所には父は存在しない、父は不在の中で生命は生み出され続ける。

では父というのは何処で登場するのかというと、母の領野で生み出された生命が社会性を獲得する時、その時に初めて父の存在が圧倒的強度を纏って前景化してくる、それは秩序や法として。

秩序や法というのは誰が生み出したのかというと、それは僕ら人間が生み出したのですね、母なる領野で生み出された僕ら生命が、存続し続ける為に獲得した、もっと極端に言い切ってしまえば捏造する事で初めて父は生み出される、僕ら人間が必要に迫られて父を強引に生み出す。

母という自然物、父という人工物、父と母は全く別の領野に存在しているという事実でしょうか。

母と父、どちらに憧れるか、というのはアイデンティフィケーションを渇望するか、それは勿論人それぞれなのですけれど。

母を切断し、父との同一化を渇望するという在り方、これは一見母を捨てるようなイメージと取り違えてしまいますが、そうではなく、一旦母を切断して父を目指し自らが逞しく成長する、その先で一旦切断した母を今度は、強くなった自分が守る・・・・・・・・というややこしい迂回だけが自分を成熟に向かわせる。

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