
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
現実はどこにあるのか
2017年12月09日 11:13「人生は妄想とともに始まる」という言い方は、いささか言い過ぎの感は否めないとは思うのですが、でもやはり、いつの時代でも変わる事のない事実というのもあってもいいように思え、いや逆かな、ヴァーチャルとリアルが絶妙に入り混じった今の社会環境の方が、なんと言うか積極的にその言葉に嵌まり込みつつあるようにも思え。
いづれにしても、自分の中に入力された言葉によって現実を分節して自分なりに認識する事しか僕らはできないのですから、それは自分が想像した事として・・・・・想像的に認識するという事でしかない、だからこそ同じ現象を目にしても一人一人の人間の感じ方は違う。
僕らは現実と言われるものを自分の言葉で自分なりに、それは誰もが、現実からの曲解を伴って独自の想像として認識する、それは妄想の入り口に片足を、全ての人が突っ込んでいるという事なのかもしれません。
一冊の本の読書感想文をクラスの生徒全員に書かせたとして、何故全ての人が違う文章を書くのでしょうか、それは自分の言葉で認識するしかないからなのかもしれないですね。
目に見える全ての現象は突き詰めれば妄想としてしか認識されない、妄想、空想、幻想、ファンタジー、ただ別にそれは誤認ではない。
では、現実はどこにあるのか・・・・・・目に映る全てが曲解を伴った現実なのだとしたら、妄想なのだとしたら、どこを探れば現実を発見する事が出来るのか。
たぶんそれは、自分の外部には存在しない、現実は自分を取り巻く環境には存在しない、存在はしているのだけれど決してその現実を現実のままには認識できない、認識するという事は言語の効果でしかないのですから、そしてその言語というのは自分独自のもの、だから自分独自の認識しかできない、ただ感覚する・・・・・言語を介さずにただ感覚するのであればそれは現実なのかもしれませんが、僕らは決してそんな芸当は出来ないですね、シュールレアリズムだっていつの間にか衰退したのだし。
現実は無意識の痙攣としてしか感覚されないのかもしれません、言い換えれば現実は決して認識する事は出来ない。
全てのと言い切る事は出来ないと思うのですが、殆どの現象はそれを見た者の言語によって分節される、その人なりの言語によって分節理解曲解される、それはその人なりの見方であり想像の領野での事。
・・・・・・・いや、ほんとはこういう事を書こうと思った訳ではないのですが、何故か勢いでおかしな方向に文章が流れていってしまいました。
—————