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理想像としてのナイト

2021年08月23日 19:18

武士と騎士を対比させていいのかどうかわかりませんが、主人に仕えるという意味合いにおいて、ただこれは勝手な主観として。

武士も騎士も鍛錬を続ける事に変わりはないのでしょうか、どちらにもストイックさのもとで。

しかし武士、主人が?白と言ったら黒いものでも白、主人が率いるコミュニティの価値観や理念それはすなわち主人の価値観や理念という事ですが、それに従い続けるイメージそこに自己は存在するのかどうかと言う疑問は別にして、昔ドラマで見た事がありますが主人が「切腹を申しつける」とか爆弾発言をして、その申し渡された武士が「ははあっ、ありがたき幸せ」とか、まさか現実にそのよな事があったとは思いませんが、切腹申しつけられて逆ギレする武士とかいなかったかなのかな、とかも思ってしまいます「はあああ?ざっけんなよ殿よう、ってかオメーよう、今までどんだけ我慢して言う事聞いてやったと思ってんだよ、オメーが腹切れよコノヤロー、ばーかっ」などと言う事はある訳ないのでしょうけれど。

まあ、その時代時代のコンテクストの中で人は生きる訳ですから、多くの人がその時代の空気を自明として受け入れるのでしょう。

騎士というと、どうしてもフランスロマン主義的騎士道のナイトの概念を美学として、それはもしかしたらシミュラークルと分かっていながらも憧れてしまう。

勿論武士も騎士も主人に仕える事に変わりはない、しかしここで言っているナイトは最終的には自らの理念に従うという、ここには明確に自己が存在しているとう憧れ。

今の時代、尊敬する人y憧れる人に、それは自分が見い出した大文字にという事ですが、それに仕える事の幸せというのは間違いなくあると思います、そこで自己を不在にして盲目的に従うのか、それとも主人との関係性の中で自己を保ち、これは今の時代で言えば、主人が間違った時には、切り捨てられるのを覚悟の上で進言するのか。

時代は移り変わっても、シミュラークルとしての武士と騎士の間で揺れ動く。

昭和の頃までの日本の企業などは、それなりに武士的なシミュラークルとしての美学を引きずっていたように思わなくもないですが、これもまた単なるイメージとして、そしてその中で内部告発をする騎士的在り方のマイノリティ、みたいな。

いろいろ言っても、やはり武士にも騎士にも憧れてしまいます。


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