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生存以外の事に費やす時間
2018年07月09日 12:02文化的、じゃないな、よく分かりません、余った時間をこれは・・・・・・余った時間を生存以外の事に費やす事、豊かさとかそんなことなのか、どうなのか。常に外敵から逃れて、それは肉食動物からとか、身の安全や生き延びる為の食料を確保する事に必死だった時代というのが、もし人間にあったのだとしたら、その時代は豊かさなどという概念は存在しようがなかったようにも思え、常にドーパミンをアドレナリンやノルアドレナリンに変換し続け、緊張感の中で自己の生存にだけ必死だった時期・・・・・なんだそれ、そんなのあったのかとかも思わなくもないですけれど、ただ武器や道具がなければ人間なんか自然界の中では弱さで考えたら下から数えた方が早いように思えますし。そんな時代を通過して、脳や言葉のおかげで生存が確保されるようになる、自然界と決別し、その決別した自然界を操作し、食料を確保し、さまざまに産み出された安全装置で身辺を固める、住居も構える。そうなると、だから衣食住システムが確立する、今まで24時間生存の危機に怯えていなくてはならなかったのが、そうではなくなる、時間が余る、衣食住以外に目を向けだす、生活という概念が芽生え、それを豊かに彩ろうと考えるようになる余裕。生で食べていたものに火を通す、味付けをする、そうすると美味しい、もっと美味しいものを食べたくなる、料理という工夫、木になった果物は甘くて美味しい、もっと甘くて美味しいものを食べたくなる、火がある、菓子を作る。自分や他者に目が向くようになる、気持ちと言う概念、その気持ちというものは揺れる事に気が付く、慰めようと考える、音楽、芸能、言葉をこねくり回す・・・・・詩、ポエム、文学、空想や妄想を形にする絵画、その後の映像。当たり前のように今僕らが触れているものは全て、この延長線上、元々は余った時間を有効に喜びと共に過ごすために生み出された豊かさを象徴するもの。生み出された当初はそれらに触れる事によって豊かさを実感できたのでしょうけれど、今の時代は美味しい食べ物も美味しいお菓子も、音楽や芸能や詩も絵画も、当たり前のように空気としてここに、存在している。生活の一部、生存の一部であるかのように、経済システムに組み込まれ、消費社会の中で有り難さを欠落させて、それぞれのアイテムは一種のコミュニケーションツールとして。全てが整った、蔓延、飽和した今の時代の豊かさはどこにあるのか。それは心に宿るという人もいるのだろうし、他者との情緒的交流こそが喜びと言う人もいる、自動操作され続ける社会の中で思考を諦めずに覚醒し続ける態度こそが人間らしい豊かな証という人もいる、あとはそもそもの目的や流れから言うと、表に出てきていない文化、一般には周知されていないコアな深掘りを共有して楽しんでいる一部の人達、これは間違いなく豊かなのだと思います、そう言えば昔の豊かさというのは全ての人間が享受していた訳ではないですね、生み出し豊かさを楽しむ人々と搾取される人々がいた、その構図は今ももしかしたら変わっていないのかもしれませんけれど。ちょっと話が逸れました、空気のように社会に晒され、人々に消費され始めたらそれはもう今の時代は豊かさとは無縁のものに成り下がる。新たに生成され続けるものを共有するごく一部の人、その時その人達は豊かだし特権的である事実によって自尊心を保てる、そしてその自尊心はポジティブな場合と、何故かネガティブな場合がある。・・・・・・・思いついたままに書いたので、何を言いたいのだか分からない話になってしまいました。
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