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知るという事に快が伴う
2016年03月27日 12:43何かを工夫したり、理解したり、有意義な学習をしたり、本来は「知」に関する行為というのは、喜びにつながったりもすることなんでしょうね。
でもそれは、強制されると何故か嫌になる、という・・・・。
学生時代の勉強って言うのもね、楽しく感じた記憶ってあんまりない。
まあ、やらされていた感満載だったし。
授業をちゃんと聞いて、理解して、記憶して、試験でいい点を取らなければならない、みたいな義務感MAXで、やらされてる感しかなかったからなのでしょうけど。
「自分の為ですよ」という投げかけも、今振り返ればそれはそれで、もう本当にその通りでしかない訳でね。
でもたまに、なんとなく自分のやる気のタイミングと試験の結果がうまくかみ合ったりすると、それはそれで楽しく感じたような・・・・。
やっぱりあれなんでしょうね、もう子供の時から、そうなんでしょう。
○○しなくてはならない、と押し付けられたように感じると、どんどん追い込まれるような気持ちにもなって、反発したくなる。
そんな風に考えた時、一流大学まで行かれた方って言うのは、すごいなあと、素直に思います。
押し付けられる感に打ち勝ったのか、それとも自発的に将来を見据えていたのか。
学生の頃、将来の事って考えてなかったしなあ、異性の事、遊ぶこと、その他もろもろ勉強以外の事。
勉強って思うからいけないのかね、知識欲?みたいな感じで思っていればよかったのかな。
大人になってから何かを学ぼうとする時というのは、必要に迫られてという場合もありますが。
もうひとつ、興味が芽生えて、知りたいと思って、知るという事に快が伴うといった場合もありますしね。
そうか、学生の時も知りたいと自発的の思えて、理解するという事に快が伴う、という経験が出来ていればよかったのかね。
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