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社会的に生きる

2017年09月02日 09:21

ちょっと、真面目な話、自分に対して問い続けている事として、だからこれは自分自身に関しての事でしかないと思うのですが・・・・・・・そう、あくまでも自分自身に関しての事です。
自分は生きているのか、生きているとはただ単に恒常性を保っているという意味ではなく「社会的に生きているか」という意味で。
社会から、他者から、認識され機能している状態、それもポジティブに機能している状態、自身の欲望するところと社会がリンクして、それなりに役に立たない訳ではない状態に、自らを定義する事が出来ているか。
ただ恒常性を保っている、身体を維持している、衣食住に安堵している、もしそれだけの事で、そこに喜びを感じられるのであればそれでもいい。
ただ・・・・・・衣食住の確保に安堵したその先で芽生える欲望、それは社会的に自分が認識され、それなりに役に立たない訳ではない状態に自らを置きたいという、欲望・・・・・生き甲斐とか生きる目的とか、自らに対する意味付けとか。
位置させるには構造化する必要がある、その構造というのは、自らが動いて、自分の環世界である事が自分の満足につながるような環境を見据えた上で、その環世界としたい環境に対して自身で張り巡らすしかない仕組み、自らが行動し、自らの手で張り巡らす以外にない、自らが理想とする構造。
その構造化されたものを認識してくれる他者が現れて初めて、自分は社会的に生きている、と、胸を張って言える・・・・・・というのはナルシシズムに根ざす宣言でしかなく、胸を張って宣言した時点で自分は終わるしかないという事実。
胸を張っての宣言というのは満足につながる、満足すればそれを守りそこに安住しようとする、そして安住は慢心や衰退を呼び込む。
胸を張って言えるのではなく、うっすらとした観念状の希望に近い暖かさを時々、感じる事が出来る可能性が皆無ではない、という程度の話。
観念を掴みかけたように感じられた時、つかの間の喜びに浸る事が出来るのかもしれなくて、ただそれは掴もうとすればシャボンのようにはじける、そしてそこで新たな葛藤が芽生える、そしてその葛藤を打ち消すように動き続けるしかないという中でのみ、構造が強化される、そして満足は永遠に先延ばしされる、逆に言えば、満足を先延ばしにする事によってしか、行動し続ける事ができないとも言える。
自身の穴倉に籠って、社会的に生きる事から目を背け、やり過ごすのか、これはそう、自分の人生そのものをやり過ごすのか、もしくはそうではなく葛藤と共に構造化を苦悩するのか。
満足や喜びというのは、葛藤や苦悩の中にほんの少しだけ紛れ込んでいる成分でしかないようにも思え。
自分に責任を持つという意味合いで、自分に対して問い続ける、それは終末の間際までなのか、それとも気力が萎えるまでなのか、ただ決して満足するという事はないであろうことはハッキリとしている中で、諦観という事も、それもどうなのかまだ分かりません。
ただ、自分が自分の人生をやり過ごさない為に、僕の場合は、常に自分に問い続けるしかない事、なのだと思っています。
あくまでも、僕個人に関しての話でしかありません、自分の居場所というのは、自分にやらせて頂ける事を通じて、自分で作り続けるしかないですしね。

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