神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


禁止のその先にあるもの

2014年12月16日 09:38

立ち入り禁止のバラ線を上下に広げて、バラ線を背中にひっかけ、少し血を流しつつも禁止されている場所に入っていき、さびたペンキの一斗缶のふちで足を切って病院で7針縫う。

「危ないから登っちゃダメよ」と言われた、ベランダの手すりによじ登り、二階から庭の植え込みに落ちる。

汲み取り便所の便器が割れ、翌日業者さんが修理にくるまでの間「いい、ちゃんとまたがないと落ちるからね、気を付けるのよ」と言われ、ちゃんとまたがないで、・・・落ちる・・・、糞尿渦巻く奈落の底へと。

汲み取り便所の時は、落ちた瞬間「あ~あっ」と思ったまでは、覚えているんですが、それからの記憶がありません。
頭からではなく、足から落ちたのが唯一の救いで、もし頭から落ちてたら、その時に当然窒息死していたと思います。
僕が3歳か4歳に時に、一人で留守番している時の出来事だったんで、救出されるまでに、だいぶ時間があったと思うんですけど。
落ちた瞬間までは覚えていて、その次の記憶は、家の裏で、素っ裸にされてホースで水攻めにあっているシーンです。
余談ですが、この落ちている間に体験したであろう、絶望や恐怖?(記憶がないのでわかりませんが)これは、自分でいくら思い出そうとしても思い出せない、という事から考えても、本物の抑圧された記憶(外傷)に少しは近いものなのではないだろうか、と思っています。

これらは、全部僕の子供の時の経験なんですけど。
どうして子供って、やってはいけないと禁止されたことを、興味しんしんで実行してしまうんでしょうか?
幼少期って、何事にも興味を示して、何でもやってみたくて。
特に自分を取り巻く環境の中の、危険を伴うが故に禁止されている事から、なぜか意識をそらす事が出来ずに。
いや、禁止されているからこそ、その事に意識が集中してしまうと。
大人になってからも続く、禁止を破るという事の起源は、こういった幼少期に遡る、人間の基本的な心性なんではないだろうか、と思っています。
禁止を敢えて破るという事は、禁止の先に、それを破って突き進めば、何が待っているのか。
それは、何か楽しい事なのか。
もしくは破滅なのか。
確認せずにはいられないといったような。
法律を破る事は、犯罪になってしまうので、それは論外ですけど。
法律に触れない範囲での禁止を敢えて破る事と言うのは、それはそれで、何となく引き寄せられるものがあるというか。
これは、幻想としての社会の一般常識や世間体と言われるものを破って、自分の志すものをつかみ取ろうとする態度、なんていう場合にも当てはまるんでしょうか。
それで、何かがいい方向に動くのであれば、当初は批判されたとしても、根回しをしつつ、成功させれば、それはそれで歓迎される訳ですよね。
でも、いいことばかりではなく。
時には自分を破滅に導く為に、敢えて禁止を破る、と言った態度も、ない事もなく。
その時、本人は高揚感に包まれている状態、という事もあるのでしょうか。
それとも、破滅を承知はしているのだけれども、精神のずっと奥の方から湧き上がってくる、衝動を抑える事が出来ずに、苦しんでいるのでしょうか。
これは、人それぞれでしょうから、本人と話してみない事には、傍から見て、他人が訳知り顔で、どうこう言える話ではないですね。
昔読んだ本の中に「人間は理性の犠牲者である。人間は理性の奴隷である」みたいな言葉が、確かありましたが。
破滅という文脈から語るとすれば、社会性を持った大人の場合、理性に隷属する事を放棄したその瞬間に、それとほぼ同時に禁止を破りたいという衝動が湧き上がってくるという事ですかね。


—————

戻る