神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


空っぽな自分

2017年04月13日 08:48

自己同一性、これはそのままアイデンティティという言葉に置き換えてもいいのですけれど、自分が、その自己同一性と言われるもののもとで日々を過ごしているのかと言うと、決してそんな事はないように思います。
意味合いとしては、一般的に流通しているポップなアイデンティティでもいいですし、人それぞれ脳裏にうっすらと浮かぶような観念的なアイデンティティでもいいのですが・・・・・・と言うのも、僕は自分自身のアイデンティティというものに、その程度の思い入れしか持っていないので・・・・人様は別ですよ、考え方は人それぞれですし、アイデンティティは大切であると思うのであれば、その方にとってアイデンティティは大切なものになるのですから、僕自身もアイデンティティを大切にしている人の気持ちは勿論尊重して受け入れさせて頂いていますし。
あくまでも僕にとっては、自己同一性とかアイデンティティとか言われる類のものと言うのは、他者と関わる上において邪魔でしかないもののようにも思われ、だから敢えてそういったものを意識から排除しているのかもしれませんが。
自分の中を覗き込んでみた時、そこには言語の、それは文章になる以前の、連結されていないただの単語のカオスが存在するだけ、これは言ってみれば言語や単語という実体のない音でしかないものが渦巻いているだけの存在でしかないという事で、それは、自分の中身というのは、空虚であり、本当は空っぽ、という事なのかもしれません、そして渦巻いている言語というのは、目を向けた瞬間にしか立ち現れては来ない訳で、そこに目を向けない限り自分の中には全く何もないのと同じ、という事にもなってしまうのですが・・・・・自分というのは空っぽな存在、空虚な存在・・・・・だからこそ何者にでもなれる、キャラクターの創造、というのは人を勇気づける時の言葉であって、自分に関しては本当に空っぽな存在でしかない。
そんな中で、こうやって言葉を書き連ねたり、カウンセリングの場になったり、そういう時には何らかの思考のフィルター・・・・・なのか、コンテクストというフィルター・・・・・なのか、なにかそういったようなものを持ちだしてくる、それは唯物論的に、その都度最も適切だと思われるフィルターを持ちだしてくる。
こういう場合はどのように考えるかとか、この人の立場に立ったらどういうふうに考えるのが一番いいのかとか、そういった思考のフィルターを持ちだしてきて、そのフィルターを通してカオスとして存在している言葉や単語を手繰り寄せる、僕の場合は明らかに、勝手に出てきた言葉を手繰り寄せるという表現でしかない、紡ぎ出す訳ではない、紡ぎ出そうとする行為というのはナルシシズムに由来する行為なのでしょうから、ポエムの手法とも言えるのかなと、しかしポエム的手法の方が人を瞬間的に感動させることは確かなのだと思います。
そしてそこで手繰り寄せられる言葉というのは、間違いなく自分の意思や自分の思考なのかと問われると、それは少しニュアンス的に違う、自分ではないものが話したり書いたりしているようにも思える、だから解離した中で行為されているのだと思います。
話す、書く、思考するという行為は、言語が渦巻くカオスというハードウエアの上で、思考もしくはコンテクストのフィルターというアプリケーションソフトを走らせるイメージ。
解離した中で営まれる行為、そうですね、だからその都度のキャラクターなんじゃないでしょうか、その場に合ったキャラクターとして常に誠実に本当の事を話している、だったらそのキャラクターを発生させた本体というのはさぞ充実した内容を備えているのだろうと思いきや、実はただの空っぽの存在でしかない、ああ、じゃあこの心掛けこそが自分のアイデンティティなのかもしれないですけど。
なにか最初に何となく言おうと思っていた事とはかけ離れてしまったような気がしますが・・・・・・たぶん、本当に言いたかったのは、自己同一性とかアイデンティティというものを強く意識し過ぎると、時にそれは他者と関わる上において、軋轢の元になってしまう場合もあるとか、自分自身を追い込んで苦しめてしまう場合もあるとか、そんなような事をうっすらと思ったのかもしれません、話がおかしな方向へ流れてゆきましたが本当はその事を言おうとしていたのかな、と思います。
頑なになりすぎない程度に、自分や他者を追い込み過ぎない程度に、それぞれの関わりという環境の中で柔軟に自分を点在させるイメージ、あちらこちらの網の目構造の中に、自分を小さく発光させるイメージ、それも一つの生きやすさだと思います、ちょっと分かりにくくてすみません。
時代の流れの中で、徐々にアイデンティティという言葉が機能しなくなったからこそ、現実の中でも文学の中でも、キャラだったり、いくつもの交替人格だったり、そういうものが発生したのかもしれないですしね、文学って微妙に社会の変化に先行しますし。
時代の変化に応じて人間のスタイルも当然変化する、環境に合わせて生きやすいように、これは当たり前の事。


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