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精神を構成する要素として

2016年08月28日 10:02

身体と精神、他人が身体に勝手に侵入してくるという事はまずもってないのでしょうが、精神に侵入してくるという事は日常茶飯事であり、それは当たり前の事でもあるように思います。
数時間前、数日前、数か月前、数年前でも数十年前でも、会話の中でであったり、目撃した情報や光景であったり、お互いの人生のすれ違いざまに投げかけられた何気ない一言であったり・・・・・他にもいくらでもありますね。
不意に表象され、戸惑ったり、物思いにふけったり、メランコリックになったり、勇気が湧き上がってきたり。
自分に侵入してきた他人の言葉という、言ってみれば他人の代替え物、その言葉が想起される時、瞬時にその言葉を発した他人の顔や仕草や声というその人の特徴も脳裏に浮かぶ訳ですから、それはもう他人が自分の精神に侵入してきてしまっていて、自分を構成する要素として機能している、という事。
でもこれは、社会的存在として他人とコミュニケーションを取り続ける上で、避けられない事ですし、その効果として、自身の成長や成熟や知、逆にネガティブな要素として、あまり倫理的道徳的とは言えないような思考を形成する事もあります、人は影響し合いますからね。
他人が勝手に身体に侵入してくる、と想像した場合、当然そこに嫌悪感を抱く場合もあります。

これと同じように、相手の精神が勝手に自分の精神に侵入してくるという事にも、大きな嫌悪感が芽生える場合があります。
相手が発する言葉というのは、受け取る方にしてみると、それは相手の精神を代表しているものですから。
そしてその言葉が、自分の精神に強度を伴って侵入する事というのは、案外容易かったりもします、特に不安が高まっている時、迷っている時。
そう考えた時、どういう人と接触するかというのは、とても重要にもなりますね。
相手の言葉が自分の意にそぐわなくて、それを否定するにしても、妥協と共に受け入れるにしても、自分の精神を構成する要素となってしまう事には変わりはないのですから。
そして困った事に、人の精神というのは享楽に囚われる傾向を持っているというか、一旦は自分にとって有害であると判断して否定したものに不安や恐怖の中で近視眼的に対峙しているうちに倒錯してきて、その否定済みのものを混乱の中で選択してしまうという事もよくあります。
なんかどんどん論点がずれて、書き始めと書き終わりで自分の想定していたものと全く違う文章になっていますが・・・・・・不安が高まっている時ほど、誰と接触するのか慎重に判断できるといいですね(これは専門家を選択する時にも勿論当てはまる事ですし非常に重要な事です)・・・・現実的かつ理性的な対応、神秘的な対応、暗示的な対応、ご自分が何を求めているのかにもよるのでしょうが、勿論どれもその人に合ってさえいれば安心につながります、そして救いになる可能性があるものと、成長や自身の強さにつながる可能性のあるもの。
いつでも、他人は精神に侵入してくるし、その瞬間に良くも悪くも自分を構成する要素として取り込んでしまう、それも自然に無意識的に。
であれば、自分が納得いく人と交流していきたいものですね。




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