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納得
2017年11月30日 09:25人生は一回しかないというのが事実だと仮定して、などと言うまでもなく紛れもない事実なのでしょうけれど。
僕らは身体的には、生まれた瞬間から時間の流れの中に在り続けるしかない、その時間というものは、規則正しく経過し続ける事をやめない。
成長する中のどこかのタイミングにおいて、身体組織は充実のピークを迎える、そしてそれ以降、身体組織は衰え始める、ピークまでは生に向かっていて、ピーク以降は死に向かっている、のかどうかは僕には分かりませんし、そう、そんな事を書こうと思っていた訳ではないのかもしれなくて。
人生が一回しかないのだとしたら、どのように生きるのが理想的なのかという事を考えてみても、理想というのは人それぞれ違って当たり前。
どうせ死ぬのだからやりたい放題というのもありなのでしょうし、常に注意を怠らずに超堅実にというのも、それから、いつも人より少しだけいい思いをしていたい、というのもあるのかもしれません。
いずれにしても納得、納得というのが最終的には、これは人生の終末期に回想と共に得られる納得もそうでしょうし、それ以前の一つ一つの出来事に対してもそうなのでしょうし。
この納得というのはかなり厄介であるように思っていて、僕が時々実感するのは「納得」の対極にあるのは「賢明」という事なのではないだろうか、という事。
理性によるところの「賢明」そして、感情によるところの「納得」とか。
何かを選択する時、分かれ道のどちらかを選択する時、引くか進むか決める時、理性により賢明な判断をくだせば、事なきをえる場合も多い、でも心の中ではなんとなく納得がゆかないような、悶々とした気持ちが残ってしまったりという事もある。
逆に、ほとばしる感情によって選択せざるをえない時、有利とか不利とか成功の確率とか、そういう賢明さの枠外で・・・・・・こんな時はどういう結果になったとしても自分が納得する為に、という場合が多いでしょうか。
そしてその結果としての、爽快感を伴った「やっちまった感」とか、でもまあ、やっちまった感というのもそう悪くはない、後々まで心に引っかかり続けるより、思い切って選択してみたその結果として、すっきりしたっていい・・・・・・・人生がもし、一度きりなのであれば。
ロジカルに生きている方は別なのでしょうが、賢明さの対極に位置するのは愚かさであるとは、文脈によっては言えないように思いまして。
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