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背景から切り離す
2016年12月31日 18:00食べ物でも、ブランドか否かに関わらず物でも、なんでも、最初にその物が生み出されたのには、理由、なんらかの背景がありますね。
それは時代の必然や要請であったり、その地域の人が工夫の末に生み出した事であったり、その時代の事情による事が原因としてあったり。
そういうものが時代を超えて脈々と受け継がれて生産され続けて、それを所有する事や消費・賞味する事に誇りや不変の価値を見出す、歴史の深みと共に生きる、時にはその物に敬意を表しながらと言う場合も。
最初に生み出されたオリジナルのままに在る事が当たり前で、それをキッチュに変容させようとか、もっと使いやすくしようとか、もっと美味しくしようとか、そんな事は思案する必要すらなくて、原初のオリジナルを当たり前のように味わい続ける事や所有する事にこそ大きな意味がある、価値がある、プライドがある。
多少不便でも、今となっては古典的な味のようにもし感じるのだとしても、そのものを生み出した背景と共に在る事が、誇りにつながる「これはこういうものって決まってんだよ、当たり前だろ」的に、文化の深み。
それが日本に紹介されたとして、紹介されるのは物だけであったとしたら、それが生み出された背景までは輸入されては来なかったとしたら、そこにリスペクトは存在するのか。
背景からその物を切り出し、切り離し、表面的に味わう。
それがもし食べ物なのだとしたら「へぇー、美味いね、でもこうすればもっと美味くなるんじゃないの」と、アイデアと共にサラッと変容させてしまうという事は起こるのか・・・・・単純に言えば、よりおいしく味わえるように工夫するとか、より楽しめるように加工・細工するとか。
伝統や背景を一緒に味わっているのではなくて、そしてその地域の人のように何の想い入れも、もしないのだとしたなら、表面的な味だけしか認識していなければ、もっと美味しくする工夫とか、簡単に考えちゃうんじゃないでしょうか・・・・・それが、いいのか悪いのか、僕には分かりませんが。
歴史や文化や誇りや不変の価値を見い出し、それらと共に在る満足を拠り所にする事、喜びにする事。
それに対して背景からそのものを表面的に切り離して変容させる事を一切厭わない事・・・・・・となると、何が誇りにつながるのかな、とか思いますけど・・・・・まあ僕らは本来の背景や価値感やそこに在る重みを排除して楽しむことって得意ですしね、日本流のハロウィンをはじめとする様々なイベントなんかもそうなのかもしれないけど。
という、分かりにくいややこしいことを、ぼーっとしながら思いました。
全然まとまってなくてすみません、またちゃんと書きます。
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