
神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。
自分が無になる感覚
2017年05月23日 09:04自らというのは、身体なのか精神なのか・・・・・・・生暖かい外気が自らに触れた時、意識を透過して刺激される遠い一点から呼応してくる、誰のものとも判断がつかないような、あまりにもあやふやな観念。
細部を意識によって観察しようとすれば消え入りそうになり、それでも目を凝らし続け何かを掴みかけたと思った矢先に形を変え・・・・・そもそも、そのものには具体性などというものがあるのか、何もない場所に映し出した幻想なのか、しかしその呼応してくる場所こそが自らの核であるかのようにも思え。
自らの核というのは、空虚でしかないという悪い予感から目を背けつつ・・・・・・自らというのは身体でも精神でもなく抱え込んだ空虚、そしてその空虚こそが原因となって自らを突き動かす。
ところで・・・・・・・・・この文字の羅列、記述というのは誰がしているのか・・・・・少なくとも、自らとしての僕がしている訳ではない、翻訳しようと試みても、やたらとややこしくなるばかりでもあり。
意識とか理性とかの主体としての自分、無意識の主体としての自分、自分と認識可能な主体というのは2つあったとして、しかし、無意識などというものも、人が言うほど固有のものでもないのだろうし、結局は他者からもたらされた数多くの言葉が渦巻いている場所に過ぎない訳だし、今この瞬間には忘れている言葉の集合体、万が一、その部分を心と名指すのだとしたら・・・・心、他者からもたらされたもの、とかなってしまう訳ですが、そこにかけがえのなさ的な感覚が存在していいのかとか。
この無意識をただ黙って観察している、孤独に膝を抱えて座り込んでいる核、その核こそが本当は存在するのか存在しないのかさえ定かではない、空虚な自分、という核。
その空虚さを埋め続ける為に僕らは、人と関わる事を渇望するのだし、希望というベールで空虚を覆い続けるのだし。
などという、突き詰めた場合のドン詰まりというか、行きつく先みたいな話ですけれど。
自分が空っぽとか、無になったように感じるとか、そういう事を感じてしまう完全にオチきっている時というのは、人によってはこの場所と対峙しているのかもしれないです。
浮上するには、その場所まで誰かに迎えに来てもらう事が大切、いきなり引き上げられるのも無理や負担がかかりますから、少しずつ。
こういうのはべつに不気味な話でもなんでもなくて、オチきっている状態で突き詰めていった時の行き止まりで当たり前のように見えてくる僕らの本質の一つなのかもしれないもの、空虚を愛や希望や肯定感で覆う事が出来れば、また生きやすくなるのでしょうし、なんにも諦める必要はない。
自分が嫌い、自分がイヤだ・・・・自分を否定する・・・・自分の内界とは今まで自分に入力され続けた言葉で出来ている・・・・言葉として内在している、自分の嫌いな要素をを一つ一つ否定し剥ぎ取ってゆく・・・・自分を全否定するという事は全ての要素を、全ての言葉を剥ぎ取るという事・・・・その結果最終的に残るのは、核・・・・空虚な核・・・・自分が空っぽ、何もない、無。
ただの、ややこしい考え方の一つでしかありません、端折っているので丁寧な説明ではないですし。
—————