神奈川県藤沢市城南 東海道線沿線のカウンセリングルーム。辻堂駅より国道一号線方面へ徒歩12分。10:30~21:00、年中無休。


自分が生成されたという事

2020年05月14日 10:34

ある程度の年齢これは人それぞれ違う訳ですが、それが30歳の人もいれば40歳50歳の人もいて、その、それぞれの人が思うある程度の年齢になってくると「誕生日おめでとう」などと言う言葉を差し出されると不貞腐れる場合もあるし、虫の居所によってはいきなり激ギレする場合もある、理不尽な事に。
そういう激ギレ不貞腐れの季節を経由して、これは達観の季節なのか諦めの季節なのか、できれば達観の季節もしくは自然体の季節であって欲しいのですが、そうですね自然体の季節これがいいです。
その、自然体の季節に届いた頃に思う事これは「よくもまあ、ここまで生き延びてこれたものだなあ」という感慨深さ。
思い返せば綱渡りの連続、イチかバチかの連続、勢い任せ、運を天に任せる、当時は自分なら大丈夫であるというように無根拠に思い込んでいたある意味、これはパラノイアでしかないのだけれど。
今更ながら当時を検証して「よくうまくいったなあ」とか「いやいや、今なら絶対やんないわあ」とか、そんなような冒険まがいの事ばかり、なんの確証もないままに飛び込んでゆく無鉄砲。
ただこれは今の自分から見た場合というだけの事であって、それはもしかしたら分別臭い退屈な、つまらない大人の意見でしかない。
当時は本気で自分なら大丈夫とか思っていたし、出来て当たり前、そして失敗した時には全てを無かった事にする事が出来る折れない精神もしくは心。
全ての行動の動機は一つの想いに回帰するそれは「自分なら大丈夫」という屈折したナルシシズム、でも実際には大丈夫だった事の方が少ないのですが、失敗は自動的に、なかった事になってしまうのであまり覚えていません。
「普通は無理なのかもしれないけれど、まあ自分なら大丈夫なんじゃないの、だって、俺だから」という事を確認し続ける為だけに生きてきたように思う。
生きるとは、自分は大丈夫と言い続ける事、みたいな屈折。
そんな事を思うと、誕生日というのはまた一つ歳をとったとかどうとかいう浅い事ではなくて「自分が生成されて、本当によかった」という、誰に対するでもない感謝感慨。


—————

戻る