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自分だけの宝箱

2016年12月11日 09:16

相変わらず、考える必要のないどうでもいい事を、ちょっとだけ考えてしまったのですが。
僕はよく「自分の思考とか意識とかの、もっと奥の方」などという言い方をしてしまう。
これは、文脈によっては「心」的な言葉を使う事によって、ナルシシズムの深みに陥る事を防止する目的で、意図的に用いているのですが。
要は、普段は忘れているような昔の経験とか、そういった経験に基づいた何らかの観念や情動のようなものが湧き上がってくる場所のようなものを指して「奥の方」とか表現している訳で。
なんとなくこれ、思うに「奥の方」という事ではなくて「遠くの方」であるのような気がしまして、だから湧き上がってくる場所というよりは、やってくる場所という事。
そしてその場所というのはどこなのかと考えてみると、なんというか、なんでしょうこれ、自我が芽生えた場所・・・・・・みたいな感じ。
僕の場合は静岡県の伊東で幼少期を過ごしたので、なんとな~く、その時に住んでいた住居の周辺の光景が想起されるのですが。
自我が芽生えた時分を過ごした環境や場所には、なにか自分の大切なものでも置いてあるのでしょうか。
イメージとしては、そこに自分だけが認識可能な宝箱のようなものが存在していて、その宝箱の中には自分にとって大切なものーーしかし他人から見れば何の変哲もない取るに足らないものーーが、大切に保管されている、それは自分の経験した事柄からさまざまに芽生えた喜びや悲しみや寂しさと言った情緒、決して忘れ去りたくはない大切な情緒やその情緒に付随したビジョン。
その宝箱の中身は成長に従ってどんどん増えてゆく、大切なものであればあるほど、その宝箱に、人には内緒で保管するから。
そして自立してその場所を離れてからも、なにか目には見えない細い糸のようなもので、その宝箱と自分は、常に接続されている。
だから、そんなような理由で、観念や情動が遠くの方からやってくるように感じるのかな、などという事をチラッと思いました。
生まれた場所、育った場所、それは自我が芽生えた場所でもある訳で、じゃあ、その自我というものが芽生える前の自分というのはどういうものだったのか、とか考えてみたとしても、それはまだ言葉を持たない自分でしかないようにも思えて、だから何らかの経験や情緒はあったにしても、それは記憶や記録はされていなくて。
だからそこには空白の自分を設定するしかない、言葉を操れるようになる以前にも、なんらかの想いは持っていたのかもしれないけれど、それは確認のしようがなくて、今となってはなにも思い出す事はできないという空白の場所、それは不安が芽生える原因としての空白。
その空白を埋める為、満たす為、なのかどうなのかは分かりませんが、そこに大切なものを保管する、その空白こそが自分だけの宝箱、なのかなと思いました。
でも、もっともっと突き詰めると、無意識的な部分の奥底に沈殿している情動や観念やビジョンはその空白を経由する事なしには自分の意識の元にはやってこれなくて、意識の元にやってきた瞬間に事後的に宝箱が設定される、ような気もします・・・・・・とか言いだすと、このややこしい話はまた今度考えます・・・・・・ほんとは考える必要のないことではあるんですけどね。
確かに、幼少期を過ごした場所に立ち返った時というのは、懐かしいんだか、嬉しいんだか、悲しいんだか、満たされたんだか・・・・・非常に複雑な感覚に呑みこまれます・・・・・・そして最終的には、なんとなく勇気のようなものが湧き上がってきたりもするのですが。

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