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自分という意識が芽生えた場所
2016年12月10日 09:07僕自身が、あくまでも僕自身が自分についてかえりみる時。
いつの間にか、知らないうちに、自分の意思とは関係なく生まれ、これは個体として、生命体として、発生したという意味です。
その後、養育者と思しきものとの何らかの関わりの中の、どこか今となっては定かではないタイミングで、この個体が「自分」であるという認識に至った、自我の芽生えとか言われるものでしょうか。
だからまず初めに単なる生命体として発生した後に、もう一度、今度は「自分」として発生し直した。
しかしまあ、この「自分」という感覚ほど、不思議な感覚はないというか、なぜこの身体に「これこそが自分である」などという不思議な認識が芽生えたのか。
もっと言えば、自分と認識しているこの意識というものは何なのか、とかも思いますけど、それを言いだすともっとややこしくなってしまうので、今は置いといて。
そして、その「自分」という認識が芽生えた時、自分は何かを感じたのか・・・・・・どういう人生を歩んでいこうとか、自分として発生したことに何らかの喜びや高揚感を感じたのか。
あ、そうだ、もしかして自分というものに名前が付いていなかったとしたら、養育者からの名付けというものがなかったとしたら「自分」という感覚はもう少しあやふやなものになるようにも思います。
僕らは名前が付いている事によって、自分はその名前の持ち主であると思えるのでしょうし、自己同一性、アイデンティティとかいう事にも近いのかな、だから名前というものがなかったとしたら、自分という認識ももう少し輪郭がぼやけたりもするような気もします・・・・・話が逸れました、元に戻すと。
自分としての意識が明確になった時、その事に、生まれてきた事に、なにか喜びとか達成感、これは「やった、ついに生まれてやったぜ」的な。
まあ、そんな事は感じた覚えはなくて、僕の記憶の中で、あれは確か、まだ3~4才位の時だったと思うのですが、祖父に「ねえ、僕は何歳まで生きるの?」と聞いた事をハッキリと記憶しています。
その時祖父は一言だけ「100歳」とニヤニヤ笑いながら答えて、僕はなぜかその時、すごく悲しく寂しく感じて、気の遠くなるような、暗がりでため息と共に膝を抱えたくなるような、落胆、抗えないという無力感、取り返しのつかないような感覚・・・・・・なぜそんなふうに感じたのか、全く分からないのですが、今の自分の思考でその事を解釈してみると「絶望」という二文字で刺し止めるだけにしかならない、そしてその言葉だけは僕はどうしても受け入れる訳にはいかないという思いが強く、それは、これからもずっと。
まあ、それはそれとして、これが自分であると認識してから、すでに半世紀を生きてきて、自分はどこにたどり着いたのだろうかとか、今の場所を目指して歩いてきたかったのだろうかとか、そもそもどこかを目指して歩くという行為を、してきたのか、してきていないのか、もしかしたら、自分という認識が芽生えた場所をただグルグルと回り続けているだけなのではないだろうかとか。
ああでも、多分そうなのでしょうね、芽生えた場所の周辺をグルグルと回りながら、あわよくば芽生えた場所の中に戻ろうとしている、何の責任も負わずに漂い続ける事を許されていた季節という場所、それは今となっては、何もない空白の場所でしかない訳ですが。
もしくは、自分として発生した後に、自立する以前の段階までの、満たされなかったもの、不足していたもの、そういうものを適切に自分の力で満たすまで、その場所からは離れられない。
満たしてから歩きだそうと思っているうちに、あまりにも長い年月が過ぎ去ってゆくのか、それとも最後までグルグル回り続けようと最初から肚を決めているのか。
何となく思うに、突き詰めれば一つには、僕らは自立以前の、適切ではなかった、満たされなかったものや誤って与えられたものを、自分が納得がゆくように適正な形に形成し直すために生きている、それには「自分」が芽生えた場所の近くに常に居続けて、どこが適切ではなかったのかという事を確認し続けるという行為が必要で、だから必然として、芽生えた場所から離れようがない、そうしないと適時確認という作業が出来ませんしね。
「自分」として生まれてからどこかに歩いて行く訳ではなくて、でも感覚的には歩いているように感じながら、それは何らかの経験を重ね続けるからそう感じるだけであって。
人間関係というツールを用いて、自分を適正な形に近づける。
親子関係という最初の濃密な人間関係においての過不足を、自立後の自分独自の人間関係の中で納得のゆく形に修正し満たし直そうとする・・・・・それは仕事を通じてであったり、自身の新たな家族や仲間や友人や恋人を通じて。
それが自分を完成形に近づける事、もしくは自己実現みたいに言い表される事。
そういえば、やりたい事とか希望とか理想って、よくよく考えてみると、けっこう子供の頃に満たされなかった要素がベースになっていたりもしますしね。
みたいなややこしいことを、ちょっと思いました、ぼーっと書いているのでおかしな言い回しもあると思いますが。
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