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自分とは何か
2019年05月06日 20:36自我とか超自我とか、懐かしい20世紀の古典なのか考古学なのか。
特に「超自我って・・・・・なに言っちゃってんのウケるんですけど」というのが実のところでもある。
人間はなにを拠り所にしてきたのか、その時代時代の拠り所は超自我に問答無用で侵入していたのかもしれないけれど。
その侵入物が神という意味での天だった時代もあったのだろうし、科学が発展して飛行機であったりロケットであったり、神の存在する天にまで人間の活動範囲が広がった時、もしかしたらその天で神に遭遇できるとかいう期待もあったのかもしれないけれど残念な事にUFOの目撃情報はあったにしても神の目撃情報はなかったように思う。
その失望の時点で超自我に侵入したのは大きな物語、それは人間の行くべき方向を示してくれる、皆が向くべき方向、その方向に向かえばもれなく幸福になれるという、大きな物語。
日本版の大きな物語は資本主義ベース、それは高度経済成長という、情報が末端まで行き渡らなかった時代にはそれは十分に機能していたのかもしれないけれど、これは情報化が先だったのか、いや、そうではなく資本主義が蔓延した時点で、物が蔓延した時点で、大きな物語は崩壊し始めた。
次にその代わりを担ったのは心理学、社会の心理学化と言われる時期。
・・・・・・・なんかめんどくさくなってきましたが、そう、もう終わったのだと思う、心理学的人間という幻想、まあそれ以前の人間も幻想だった、そしてこれからの人間もたぶん、幻想には違いない、この糸の切れた凧は今度は何を取り込むのか、なにを拠り所とするのか、今は科学なのだろうけれどただ、情報が細部まで十分に行き届くようになった時点で大きな物語は崩壊してそこかしこに、雨後の竹の子のように小さな物語が乱立している状態、その物語はこれからもどんどん量産され続けるのだろうし、だからなにを取り込むのかによって拠り所は人それぞれ、まあいいですとにかく言いたかったことは、この心理学がその昔提出してきた超自我というもの、これは自分のどこを探ってみても見当たらないという実感。
無意識の入れものがあって、ああ、ちょっと前までは自分に無意識の入れものがあったように思うのだけれど、今は自分の知という単なるデータベースがそこにあって、そのデータベースには階層なのか奥行きなのか、なにかそんなような何となくぼんやりとした奥行きのようなものがあって、自分のその場での都度の経験によって唯物論的に膨大なデータベースと自分をつなぐインターフェース上に、たぶんこれはスクリーン状のものであるように感覚しているのですけれど、そこに刺激によって前景化してきた言語の連なりを映し出すだけの、ただそんなような自己。
人間などは言ってみれば、文化結合的な存在でしかない訳ですし、コンピュータ技術が進化し続けている今の時点ではこんな感じ、そして考え方は人それぞれですから、ただ自分の場合はこんなニュアンスであるというだけの事でしかありません。
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