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自分と思う時の自分とは何なのか
2017年06月04日 09:40自分とは何なのか、とか、なぜこの個体について、なぜこの身体について、自分と認識するようになったのかとか。
もっと言えば、この個体に対して、これが自分であると思う時の、その「自分」という認識そのものというのはなんなのか、名前とか性格とか性別とか個性とか考え方や思考や意識や、そんなような付帯以前に、これが「自分」と思う時の自分というのは、どこから発生したのか、どこから派生したのか。
自分という意識が芽生えてから、自分の親はこの人で、こういう苗字で、自分はこういう名前で、という認識が芽生えるのでしょうから、それ以前にどこかで、自分という認識が、それはたぶん匿名でしかない漠然とした、しかし固有としての認識が芽生えて「これが僕、これが私」と、その漠然さを強固で鮮明な意識や自我に形成してくれるのが、自分のルーツとしての親や家族や苗字。
人類誕生20万年とか言われますけど、今までにも数えきれない多くの人間が発生し、その一人一人が、これが自分、と思ってきた中で、何故今このタイミングで、よりによってこの身体に、これが自分であるという固有の認識が芽生えたのか、100年前の誰かの身体に芽生えてもよかったのかもしれないし、10年後の誰かの身体に芽生えてもよかったのかもしれないし、向かいの家に住むオジサンの身体に芽生えてもよかったのかもしれないし、そんな中でのこの身体に対しての、自分という意識。
なんか言ってる事が自分でもよく分からんですが、自分という認識は、どこかから飛翔してきた訳ではないのだろうし、だから偶然でしかないのだろうけれど、考えれば考えるほど不思議でもあり、そしてあまりにも根源的な不思議さであるがゆえに、具体的に鮮明に言葉で言い表すことが出来ないというもどかしさ。
自分という意識とは何なのか、何故自分という認識が芽生えたのか、今まで20万年も芽生えずにいた訳だから、本当は芽生えなくてもよかったのか、順番とかがある訳じゃないのだろうし、ただの奇跡なのか・・・・・・もしそうなのだとしたら、無から芽生えたものとして、歓迎、感謝、奇跡に・・・・・ただの奇跡でしかないものに感謝するべきであるかのようにも思え。
自分が自分であると思う事の出来る不思議さ、そしてその事は誰にも保障されていない中で、これは全ての人間がそうでしかないのでしょうが。
何故自分が発生したのか、発生した時に何故これを自分と思ったのか、自分と思ったその自分という想いは、どこから湧き上がってきたのか、誰にも保障されない中で執り行われる、これは奇跡でしかないのか。
であるならば、その奇跡には感謝したい。
親、遺伝子、産みだされた身体、成長段階で形成された性格や思考、こういう領野とは完全に違う領野で執り行われる、自分という認識。
ーーーーーー自分を自分と認識する、その自分というのは何なのか? なぜ自分なのか? なにか根拠でもあれば納得もゆくのですがーーーーーー
性格や意識や思考以前に認識された自分という感覚、だからもしかしたらこれは、誰に産みだされたからとか育てられたからとか、そういう事とは関係なく、偶然に奇跡的に、ただこの身体と自分という認識がリンクしただけなのか、だからそれこそ、他の身体に芽生えてもよかったのかもしれないし。
自分と思った時のその自分というものは、どこからか飛翔してきた訳では絶対にない、それだとスピリチュアルの文脈になってしまう。
偶然のリンクで、奇跡的に芽生えたもの、自分という意識を奇跡的に発生させることが出来たという事実には、感謝した方がいいのか。
この自分について自分と思う時の自分、自分の素、自分の根源、自分の要素、それは何にも裏打ちされない、という事に想いが及ぶ時、ここに芽生える感情は恐怖を打ち消した上での、感謝。
すいません、あまりにも混沌としていて、自分でも観念的にしか把握できなくて、こういう事は自明としておけばいいのでしょうが、なぜかフッと気になってしまったので・・・・・・・気になっている事の核心というのはハッキリ見えて入るのですが、それを言葉にする術が分からない、だからこの文章も、実は核心の周りを浮遊しているだけでしかないのですが。
自分を自分と思う時の自分という意識は、偶然に奇跡的に、発生しただけでしかないのでしょうか、そこに理由は不要なのでしょうか、自分の根源の無意味さ、ただ奇跡に感謝するしかない無力さ。
・・・・・・・・今ちょっと1分位、深く考えてみたんですけど・・・・・これ多分、あれですね、考え続けると崩壊しますね、自我が・・・・・・不安や恐怖しか浮かぶあがってこない、突き詰めた先には揺れ蠢く漆黒しかない、やっぱり自明としておいた方がいい事なのでしょうね、僕ごときの思考では無理です・・・・・・・・自分を自分と思う時、何故その自分を自分と思えるのか、その自分と思う意識というのは何なのか、何故芽生えたのか、全くわかりません・・・・・・だから、奇跡に感謝。
肉体が発生した時からこの自分という意識認識が芽生える事が決まっていた訳ではない、自我が芽生えるどこかのタイミングで、細い切れやすい糸を手繰り寄せるようにして、本当はもしかしたらそれは何本かの糸をいっぺんに手繰り寄せて、最終的に一本の糸だけが切れずに手繰り寄せられる事に成功する、その成功した糸が自分であっただけで、もし他の糸が切れずに残ったとしたら、この自分という認識はなかった、この自分は発生しなかった、とかも思ってしまいます・・・・・最後までうまく言葉にできないもどかしさ。
僕は無神論者なので、何かにすがるつもりは毛頭ないので、ここはやはり奇跡に感謝しておくことにします。
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