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自分にとっての現実、的なもの
2015年12月25日 09:22目の前に、身長190センチ、日焼けして端正な顔立ちのムッキムキの筋肉質の、ちょっといかつい感じの男性がいるとして。
「カッコイイ、頼りになりそう」
「こ、こわい、目合わせたくない」
「なんとなく優しそう、話しかけてみようかな」
「シャイな感じで、なんかカワイイ」
「ちょっと、こっち見ないでよ~、なんかやばい人なんじゃない」
「・・・えーっと、もし殴りかかってこられたら、スッとしゃがんで、パンチが空を切った瞬間、立ち上がりながらの~っ、アッパーカットで」
どう感じるかは人それぞれですね、事実としてそこにあるのは、身長190センチ・体重95キロ・日焼けした筋肉質の男、これだけなんですけど。
この事実(現実)を、自分の想いのようなものを通して見た場合に、上記の「かっこ書き」のような感じ方をする。
というか、そうとしか、自分の思考を通してしか認識できない訳ですね。
自分の思考(言葉)を構成しているのは、過去の自身の経験とか、メディアからの情報とか、知り合いからの話とか・・・・。
じゃあ、何の想いも通さずに現実だけを認識する事はできるのか、と言うと、それは至難の技なんじゃないでしょうかね、自分を捨てる事になっちゃうし。
最終的に190センチのムキムキにどう接するかという時点で、やっぱり自分の想いが出てきてしまいますし、その想いまで封印しようとしたら、自分をロボットや機械とみなして対応するか、ちょっとだけ解離するか・・・・。
自分の想いを通してしか事実(現実)を把握できないのだとしたら、それはすべての人が共有する唯一の現実という事ではなくてーー自分にとっての現実、的なものーーという事なのかもしれません。
これは、目の前に現れたものが、人ではなくて、何らかの出来事(障壁とみなされるようなもの等)、であっても同じですね。
だからよく言われたりするんでしょうね、ちょっと見方を変えてみましょうか、とか。
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